古賀文子、古賀忠雄回顧展のお知らせ

古賀文子・古賀忠雄回顧展案内(其の1)
古賀文子・古賀忠雄回顧展

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会期2011 年1 月24 日(月)~29 日(土)
会場フォルム画廊3 丁目ギャラリー
出品作古賀文子:100 号1 点、他30 号以下10 数点程度
古賀忠雄:小品2~3 点

父、古賀忠雄(1903-1979 佐賀生まれ)は2 歳にして父を亡くしていたと
いう。地元に有田・鍋島・唐津の窯場がある関係から、父親代わりの兄から
やきものの絵付けを職とするよう申し渡されていたのであるが、本人は東京
美術学校(現在の東京芸術大学)を目指し彫刻家になることを希望した。
彼の作品の中でよく展示されるものは、「愛と心」と謳った、母子、少女や、
猫、鳥鶏など、身近な小動物、牛、仏像などの諸作品である。
「草原を行く」(1974 年、50 × 15.5 × 30.5)
骨董屋から見付けて来た収集家がテレビの「なんでも鑑定団」に出
して大当たりとなり、注目を集めた牛の彫刻と同型の作品。今回展
示される。
しかしながら、彼が官展に於ける地位をゆるぎないものにしたのは、何と
いっても、1940 年(昭和15 年)紀元二千六百年奉祝展作品「新鉱開発」、
翌年の国民総力決戦美術展に於ける受賞作品「独立ビルマ」である。1943 年
(昭和18 年)帝國芸術院賞受賞作品「建つ大東亜」は、同時受賞の宮本三郎
作品「山下・パーシバル両司令官会見図」と共に、戦争中の芸術家の戦意高
揚の二大作品だと言えるだろう。この時期の古賀忠雄の作品は筋骨逞しい労
働者などの男性像ばかりである。
一体、彼には、転向、そして敗戦後の最転向、という意識はあったのだろ
うか。この世代の多くは黙して語らないから、知る由もない。ただ、彼が究
極的に行き着いた世界の手がかりは、彼にはイデオロギー的な思考は全くな
いにも拘わらず、特高警察に捕らえらる以前の武谷三男と親交があったこと
だ。物理学者であり、思想家でもあった武谷の語る芸術論は、平たく言えば、
「アリストテレスよりも身辺の世界に目を向けよ」と言うことだ。芸術家は大
衆には作品でのみ答えあまり語ることはしないが、この頃のふたりの会話は
想像できそうである。
※ 次回(其の2)は古賀文子の紹介を致します。
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by daisukepro | 2010-11-04 11:41 | お知らせ


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