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サヨナラ 木村京太郎

さよなら京太郎

去る、9月13日、読売広告のプロデューサー木村京太郎さんのお別れ会が赤坂のホテルで行われ、約250名が参列した。行年58歳の若さだった。既に読売広告社は退職していたが東映アニメとピエロ、読売広告の3社合同で開かれた。
式次第は読経の代わりにジャズ生演奏、献花、会食、ビデオ上映、特に親しかった友人たちの言葉、親族のあいさつでお別れ会は幕を下ろし、参列者は三々五々赤坂の街に消えて行った。

 サヨナラ 木村京太郎_c0013092_1743243.jpg私はフジテレビの日曜朝9時の児童番組で7年間、東映企画者として京太郎さんと一緒に仕事をした。いわゆる、アニメではない実写の子ども番組である。広告代理店の仕事はテレビ局、製作会社、スポンサーの間で共同作業が円滑にすすめられるように気配りをしなければならず、それだけでも細かい神経と図太い精神の持ち合わせていなければ勤まらない。それプラス、企画意図を実現するための発想やキャラクターイメージを具体化しなければならない。京太郎さんはこれらの仕事を軽やかにこなして行くのである。それに、今風に言えばイケメンだったので、女性が放っておかなかった。
当時、映画界は児童を対象とした番組を「ジャリ番(組)」と業界用語で呼んでいた。その番組に携わるスタッフは劇場用映画のスタッフから差別扱いされていた。そもそも、映画界はテレビそのものを電気紙芝居呼ばわりして、映画5社協定を結び、自社俳優のテレビ出演を規制していた。その時代の名残である。「ジャリ番」はローバジェットで労働条件が悪いだけでなく、30分単位で制作されるため30分もの、60分のテレビ番組、これを一時間もの、「大人番」と呼びそれからもさらに差別されていた。それだけではない。この種類の番組には常識のようなもの、大人たちの目線で見て、子どもはこうあらねばならないという保守的なルールが存在していたのである。例えば、ヒローはタバコをすわない、立ち小便はしないなどである。

幸いなことに各社から集められた企画者集団は企業の立場を超えて、すぐに仲良くなった。神々の思し召しなのか、偶然なのかは分からない。もっとも、これは私ひとりの勝手な思い過ごしかもしれないが、類は友を呼ぶということわざを思い出す。わたしたちには共通の敵がいた。私たちは会ってから三日も経たずに、このコンサバティブな掟を打破して何か分からないが新しいことをやろう、それを今時の子ども達は待っているんだという勝手な思いを共有することになった。けれども、この共有する価値観に綱領や規約のようなものはなく、話し合う中で自然と同じ方向を向くという具合に仕事をした。なので、これを規制する側に取っては難しいことだったのか、視聴率が順調に伸びるに従って映画企業の管理職から放任される結果となった。しかし、これは言うは易く、幾重にも張り巡らされた関門を通過しなければ実現しないのだ。お庭番のような方も存在していたようであった。あるゴールデンタイムの番組では現場でプロデューサーを批判しようものなら、翌日はそのスタッフが呼び出されるということが続いたので、ガセネタを流して犯人をつきとめたりしたという話が伝わってきたりした。笑えない職場だったのである。この奇妙な職場が映画会社に存在した経緯は別の機会にするが、いずれは書くことになるだろう。

当時、情熱を燃やしてジャリ番組の制作に取り組んだ仲間は、あるものは社長になり、会長になり、またあるものは常務取締役になり、さらに顧問などになった。サラリーマンとしては出世コースを歩んできた人ばかりである。
テレビ局の取締役は京太郎さんが提出した企画書とメモ書きを持参してくれた。驚くなかれ、それは数十年前、この番組の最初の企画書であった。お別れ会では回顧ビデオが上映されたが、そこで現テレビ局の常務取締役は京太郎さんと当時の番組に登場して仲良くジュエットする場面が映し出された。あいさつで「あのころの現場は活気があった。いまは情熱があまり感じられない。現場に活気と情熱を取り戻したい」と話した。番組制作の要は脚本であるが、浦沢義雄という天才ライターは忘れられない。詩人だが、脚本の構成力は抜群であった。いまでも活躍していると思う。彼の発案だと思うが「人生は2度ない3度ある」というキャッチフレーズがあった。京太郎さんもこの言葉を好んでいたという。忘れがたい京太郎さん自身の言葉としては「時代から感性がずれたら、いつでもこの仕事を辞める」「キャラクターは死なない」である。

喪主の久美子さんから参加者には音楽CDがプレゼントされた。「チェットベーカー」の物悲しいトランペットが流れてきた。なかでも、彼は「マイファニーバレンタイン」を愛していたという。私たちの思い出となった職場は大泉の東映東京撮影所の外れにあったが、私たちが退職後、建物は解体され、いまでは映画館になっている。
by daisukepro | 2010-11-18 17:05 | サヨナラ


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