続続々責任ある自由


「俺の胃が痛くなるような特ダネは禁止」

■権力にシンパシー生む記者クラブ制度
 こうした報道姿勢をもたらしている元凶として、記者クラブへの批判が多い。当局の発表を垂れ流すだけの「発表ジャーナリズム」批判であり、大新聞とテレビ局が独占してきた閉鎖性に対する批判である。しかし、一番の問題は、当局に対する批判を手控えてしまうことにあると私は指摘したい。
 なぜ、そうなるのか。理由は、2つある。
 うかつに批判記事を書いて嫌われたくない、ネタを他社に流されたら困る?という恐怖感。もう一つ、長期間の密着取材を続けるうちに当局に強いシンパシーを持つようになりがちだ。警察、検察の権力機関のクラブ記者にその傾向が特に目立ち、警察官や検事の目で世の中を見るようになってしまう記者も少数だがいる。
 しかし、記者クラブの存在とクラブ記者の資質を問えば事足れりという話ではない。それだけでは問題を矮小化してしまう。編集局幹部の事なかれ主義により大きな問題があると私は考えている。
 私がつとめていた新聞では官庁クレジットが入った記事が優遇されがちだった。特に東京地検、警察庁、警視庁など捜査当局ものは発表ネタであろうと大きな扱いになることが多い。編集幹部から見て「安心できる記事」なのだ。
 反対に記者が苦心してつかんだ記事、とくに攻撃性の強い記事になると編集局幹部が些末なことにまでチェックを入れてくる。批判記事を書いても上層部が押さえにかかり、もみ消してしまうことさえあった。
 私の体験だが、かつて上司の社会部長から「俺の胃が痛くなるような特ダネは禁止」と冗談めかして言われたことがあったが、目は笑っていなかった。
 ここ数年、政府は盗聴法、個人情報保護法、有事法制などなど報道の自由に関わる法案を立て続けに出してきた。司法の場でも名誉毀損賠償額の高額判決が目立っている。
 新聞はこうした動きに抗して報道の自由をどこまで貫けるのか、甚だ危ういと思う。個人情報保護法ではそれなりのキャンペーンを展開したが、有事法制では有効な反撃がほとんどできなかった。
 新聞が対抗力を発揮できない主因は、はっきりしていると思う。読者の支持を失いかけ、影響力に翳りが出ているからだと痛感する。
 各新聞社も危機感は持ってはいるが、効果的な改革に踏み切れないでいる。
「報道被害」批判への対応策として各社は、捜査当局に身柄を拘束された人を呼び捨てにせず「容疑者」の呼称をつけるようになった。私に言わせればやらないよりはましかもしれないが、小手先の話であり、読者向けの「反省のポーズ」といったレベルでしかない。

■検証機関は建前か
 また朝日新聞は外部の有識者を委員に招いて「紙面審議会」「報道と人権委員会」を設け定期的に会合を開いている。02年12月23日朝刊で「報道と人権委員会」第11回定例会の論議内容と結果を報道している。それによると、「読者・市民の視点から検証する姿勢が大切なことを再確認し、公権力の監視など報道本来の責務を積極的に果たすことが読者の信頼感、共感につながると強調した」とある。
 正論ではあるが、これが日々の紙面に具体的に反映されているとは到底いえない。新聞社側の「お説、受けたまわりました」に終わっているのが実情だ。かくあるべし論をどれほど並べたてても意味がないばかりか、こうした「建前」を紙面に掲載することで良心的新聞のポーズを取っているだけだという酷評も聞こえてくる。時間を割いて会合に出てくる各委員にも礼を失するのではないか。
 週刊文春の記事が東京地裁で差し止め処分を受けたことを受け、朝日夕刊「素粒子」はニューヨークタイムズがペンタゴン文書をすっぱ抜いたことを引き合いに出して「彼らには志がみなぎっていた。いま、週刊文春の『志』とは何か」となじった。
 新聞記者をしていた私はこのコラムを恥ずかしいと思った。ものの言い方も嫌みだが、そもそも「朝日の記者や編集幹部にNYタイムズに比肩する志はあるのか」と私は反問せねばならない。

■新聞社こそ情報公開を
 古巣の新聞に厳しいことを書き連ねたが、そこだけが問題だということではもちろんない。少数ではあるが、会社上層部と衝突しながら頑張っている後輩記者がいることを知っている。「組織内個人プレー」を多少許容する空気が読売よりも我が社にあったと思うが、残念ながらこうした記者は急速に排除されつつある。
 新聞は官庁や企業に情報公開を求めながら自らについては極めて閉鎖的である。経営情報、紙面の作成過程などまず表に出ない。改革の方向について言及する紙数はないが、新聞社は自らの情報公開に真剣に取り組むことから初めてほしいと思う。(元新聞編集委員)
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by daisukepro | 2005-01-07 05:38 | マスコミ


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