福知山線脱線事故一周年、JR西日本はーー?

福知山線事故一周年、JR西日本はーー?

107名の死者を出した福知山線の事故現場からの帰路、新幹線の車内テロップで山手線の事故を知った。架橋工事の影響でレールが5センチ隆起したため走行中の電車の車体が浮き上がった(毎度のことだがJRは後に7センチ以上あったと修正した)。異常に気づいた運転手が急停車したので大惨事にならずに済んだ。2000人の乗客は1時間半車内に閉じ込められた。その上高田馬場駅まで徒歩で脱出するはめになった。数センチの差が生死を分ける。
JRの安全問題は国鉄が分割民営化されたときから始まった。
人員削減による効率優先が事故の温床であることは過去の事例が証明しているが、本質的解決はうやむやにされてきた。事故と災害は忘れた頃にやってくるが、人災は防ぐことが出来る。
JRは事故が起こると「再びこのような事故を起こさないために安全第一に努める」と社長が深々と頭を下げてみせる。
しかし、組織のあり方の集積が人災事故を起こす最大の原因だ。管理責任者は反省しないばかりか、ひたすら惨事が風化することを望んでいるとしか思えない。そのことは、福知山線脱線事故に対する企業統治者たちの態度を見ればわかる。
4月25日、JR西日本が主催して新しい経営者のもとで事故一周年を記念して犠牲者を追悼する式典が開かれた。式典名は脱線事故を列車事故と表示され、追悼される犠牲者は107名から106名になった。なぜか脱線事故を起こした運転手が排除された。新社長は記者の質問に「日勤教育、過密ダイヤ、ATS不備などが事故の原因とは思えない。利益と安全はバランスの問題だ」と平然と答えていた。日勤教育は名をかえてより厳しくミスをおかした運転手に精神的拷問を加えている。つまり、事故の原因は運転手個人責任であるとする組織的論理が貫いている。JR西日本の統治者はいまも、事故は運転手が起こしたことであり、運転手がしっかりしていれば事故は起こらないという認識だ。JR西日本はすべての責任を運転手の個人責任に転化しようとしている。
事故現場にはにわか作りの祭壇が2カ所あり、黙祷を捧げた。幕が張られた通路には警備員が立ち並び、数人の腕章を付けたJR職員が立っていた。弔問者が訪れるたびに警備員たちは最敬礼する。腰を二重に折り深々と頭を垂れるのだ。すべての警備員は同じ角度で頭を垂れる。誰かが軍隊式に指導したと思われる。異様な光景だ。既に前々日にはJR側から関西地区の記者クラブに報道に関する規制の通達がだされ、殺気立った物々しい雰囲気が漂っている。
列車は事故当時と同じ制限速度で急カーブを曲がる。ひっきりなしに通過する。踏切に立って、しばらく見ていると30分間に数回列車は交錯して通過した。あの大惨事がこの時間に起こっていれば惨事はさらに倍加しただろう。ダイヤは1分半ゆとりを取って改正したと云うが、駅の停車時間を延長しただけで列車は事故当時の制限速度で走行している。運転手が制限速度を守ってさえいれば事故は起こらないという態度がここでも見え隠れする。あわてて設置したATS装置の設定場所が杜撰で制限速度をこえたにも拘らず、作動しなかったことが明るみに出たりした。現在の運転手は「これでは、そのうち元のダイヤにもどるだろう」と云っている。
駅の停車時間は見えるが、走行中のスピードの変化はよほどのことがない限り乗客には分からない。
経営者は交代するだけで余生を裕福に暮らしている。犠牲者の遺族に対する補償はいまだに進展していない。「出来るかぎり、誠意をもって対応したい」とJRは言うが、「経営の出来る範囲で」なのか、「補償を第一に考える」のか分からない。補償総額はいまだに提示されていない。犠牲になるのは満員電車で通勤する庶民と乗務員ばかりだ。これこそ小泉らが望む民営化の正体だ。思い通りになってさぞ満足だろう。オペラ鑑賞の余裕があるのなら追悼式に参列したらどうだろう。民のことは官は知らない民営化。
この新自由主義・市場原理主義者の経営者を総退陣させないとJR惨事はまた起こる。
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by daisukepro | 2006-04-30 14:08 | マスコミ


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