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続・歴史の真実は消せないー「南京事件の真実は」


  昭和11年(1936年)、日本では二二六事件がありました。その年の終わり、抗日民族統一戦線が結成され、ようやく中国は一つになろうとしていた頃です。(このくらいのことは学校で習った記憶があります)翌年の昭和12年7月7日、盧溝橋で発砲事件が起こり、これをきっかけに紆余曲折はありましたが、日中戦争が始まります。上海を中心に激しい戦闘が行われ、同月11日、早くも日本政府は朝鮮と満州から2個師団、日本から3個師団の派兵を決定します。宣戦布告もなにもありません。中国政府軍は上海から南京へ後退していきます。北部では中国共産軍と日本軍が戦う全面戦争になった。日本軍は首都さえ落とせば勝利であると考えて、ひたすら南京を目指して進撃しました。占領後の占領政策など何もありませんでした。各師団は先陣を争うように進撃を続けました。特に揚子江沿いに東から侵攻した部隊はかなり激しく追撃したと云われています。南京が陥落したのは12月13日でした。続・歴史の真実は消せないー「南京事件の真実は」_c0013092_1027444.jpg
講演で大学教授は南京攻略作戦を指揮した第16師団長・中島今朝吾中将のその日の日記を読みました。

「本日正午高山剣士来着す。時恰も捕虜7名あり。直ちに試斬を為さしむ。」
「到る処に捕虜を見、到底其始末に堪えざる程なり」「大体捕虜はせぬ方針なれば、片端より之を片付くることとなしたり」「、、、、中々実行は敏速には出来ず。」「佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、平安門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三◯◯、其仙鶴門付近に結集したるもの約七、八千人あり。尚続々投降し来る」「七、八千人を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当たらず。一案としては百、二百に分割したる後、適当のヶ処に誘て処理する予定なり。」

「剣士が来る?」時代劇のようですね。著名な剣術の達人が来たので、捕虜7人を腕試しに軍刀で処刑させたと言うのでしょうか。「始末」とか「処理」とか「片付ける」とか出てきますが、ゴミの処理とは違います。処刑したと云うことです。続・歴史の真実は消せないー「南京事件の真実は」_c0013092_10263269.jpg(この記事(大阪毎日、東京日々新聞)はでっち上げと云う人がいますが、この日記は否定出来ないでしょう。)
「敵兵を捕虜にしない方針」だと言うのですから、第16師団は敵を皆殺しにすると決めていたことになります。捕虜にすれば、捕虜を収容する場所がいります、また、警護する兵隊もいります。食糧が必要です。だから、捕虜は片っ端から片付けることになります。ところが捕虜の数が予想をはるかに超え、その処理方法に困ります。「相当大なる壕を要し中々見当たらず」、つまり遺体を処理するための大きな穴がいるが、何千人となると適当な壕が見つからない。そこで、「百、二百に分割して」適当な場所に連行して処刑しようと考えたと日記に書かれています。(日記だけでなく、将兵の目撃証言は山ほどあります。)

当時の国際法では捕虜を裁判にもかけず、処刑することは禁じられていたのです。日本の外務省のホームページでも「日本政府としては日本軍の南京入城後、多くの非戦闘員の殺害や略奪行為があったことは否定出来ない」と認めています。楷行社発行の「南京戦史」には「通常の中国軍将兵の戦死者約3万人、将兵の生存者約3万人、それ以外に中国軍捕虜、便衣隊の撃滅、処断による死者1万六千人、一般市民の死者約1万五千七百六十人」と記載されています。合計すると約3万人が国際法に違反の日本軍の行為によって虐殺されたと言えます。(つづきは次回で)
by daisukepro | 2007-12-13 22:48 | 憲法


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