2017年 11月 13日 ( 9 )

小池劇場の終焉が決定的に 葛飾区議選で都F5人中4人落選

「小池劇場」終焉がここでも決定的となった。

 12日投票の東京・葛飾区議会議員選挙(定数40・立候補者59人)が13日午前開票された。小池百合子都知事が事実上率いる「都民ファーストの会」は、擁立した公認候補5人のうち当選は民進党から移った現職1人のみで、新人4人が落選となった。

「都民ファーストの会」は今年7月の都議選で50人中49人が当選という大勝利を収め、その勢いに乗って、都内の自治体の首長選や議員選挙に候補者を積極的に立てていく考えを示していた。その最初の区議選でこの惨憺たる結果では、お先真っ暗だ。

 先月の衆院選で小池知事が立ち上げた「希望の党」が大惨敗した影響がモロに出たともいえる。今回の区議選では、小池知事は応援演説などで街頭に立つことは一度もなかった。(日刊ゲンダイ)
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by daisukepro | 2017-11-13 22:14 | 政治

沖縄ノート(8)

坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

沖縄ノート(8)海に沈んだ学童と疎開者たち 17/10/12

疎開へ
 沖縄戦が始まる前年の1944年になると、沖縄では米軍の沖縄本島上陸が、怖れとともに、ささやかれるようになった。サイパンなど南方諸島での日本軍の敗北の事実が島民の間に知られるようになったからだった。さらに、中国戦線から部隊を沖縄に移す噂が伝わると、いよいよ米軍の沖縄上陸が現実味を帯びてきた。沖縄が戦場になれば、四方を海にかこまれた沖縄では逃げ場がない、島を出るしかない、と住民はしだいに、そう思うようになった。
 やがて怖れは現実のものとなった。小磯国昭内閣は7月7日緊急閣議を開き、沖縄本島、奄美大島、徳之島に居住する老人、子供、婦女子を日本本土と台湾(当時の日本の植民地)に疎開させることを決定し、鹿児島県と沖縄県両知事にその旨通達した。
 その計画は7月中を疎開の実施期間とし、那覇港から本土に8万人、台湾に2万人を避難させるというもので、疎開に該当する者として、17歳から45歳までの軍に協力できる男子を除く、老人、子供、婦女子に限るとしていた。
 この計画を知らされた沖縄県知事と県当局は当惑した。疎開を実施するとしても、県は輸送船を用意することはもちろん不可能である。船舶の用意は政府に頼らざるを得ない。だが果たして、政府は10万人の疎開者を乗せる船舶を那覇港に差し向けることができるのだろうか。
 県当局は難しい判断を迫られた。当時沖縄近海には、しばしば米軍の潜水艦が出没していたからだった。一方、住民は、住み慣れた島を離れて本土や台湾で暮らすことへの不安をぬぐい切れなかった。さらに、疎開に際しては「敗戦思想に陥ってはならない」とする政府通達があったことから、県知事としても、住民にたいして、米軍上陸を予告したうえで疎開を指示することもできず、ためらわざるを得ない。
 とはいえ、沖縄県としては、政府の指示に従わざるを得なかった。警察部に特別援護室を設けて、学校などをとおして島民に疎開を勧めることになった。ところが、疎開を希望する者がほとんどなく、沖縄で暮らしていたわずかな他府県出身者だけが申し込むにとどまり、しかたなく、警察官や県庁職員の家族から疎開させることになった。
 その後は、戦況の悪化とともに、米軍の沖縄上陸がいっそう怖れられるようになる。沖縄が戦場になるのであれば、家族が別れ別れになることもしかたない、家族が分散していれば、家族全員の犠牲は免れるであろう、と考えるようになった。そうしたなか、疎開を希望する住民が徐々に増え、乗船にそなえて荷物をまとめ始めた。だが、輸送船が那覇港にいつ来るのかがわからない。じっと通知を待つしかなかった。
 疎開の期間とされた7月が過ぎ、その翌月になって、対馬丸、曙空丸、和浦丸の3隻の輸送船が那覇港に寄港した。8月21日、5000人の島民を乗せた三隻の最初の疎開船が那覇港を出港することとなった。

対馬丸遭難

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 那覇港を出港した翌日の8月22日、対馬丸の甲板で学童たちは引率の先生の指示に従って、救命胴衣をつけ、不安な面持ちでうずくまっていた。対馬丸は那覇港を出てしばらくは無事に航路をたどった。
 その日の夕刻、津島丸は悪石島近海を航行していた。艦の指揮官が、「この近海がもっとも危険な水域である。だから注意事項をきびしく守るよう、今日一日を無事に過ごせば、きっと無事に鹿児島に着くことができる」と、甲板の一段高くなったところから学童全員に安心と注意をうながした。
 日が落ちると、月明かりだけの甲板の闇のなかで、学童たちは無事に疎開できることをねがいながら、不安げに友人たちと話し合っていた。
 不運が襲ったのは、その日の夜10時過ぎであった。爆発音のような轟音が数回轟くと、船体が揺らいで、しばらくすると甲板が傾きだした。立つことができない。先生が大声をあげている。学童たちは斜めになった甲板の上を滑りながら、次々と海の上に投げ出されている。船が沈むのだから、海に飛び込まなければならない。月明かりで微かに見える海の上には、おびただしい大小の破片が浮き沈みし、重油が流れ出したのか、引火して何かが燃えている。
 対馬丸は6754トン、最大10ノットという低速の老朽船であった。その陸軍が所有する運搬船に、学童1661人が乗船し鹿児島港へと向かっていた。その航路で、対馬丸は米軍による三発の魚雷によって撃沈され、1558人の学童が犠牲となった。救助された学童はわずか177名であった。犠牲となった学童の数が多かったのは、護衛のために航行していた「宇治」「蓮」の二隻の護衛艦が危険を避けて、漂流する人々を救助せず、そのまま鹿児島港に向かったからだったといわれている。海に投げ出され漂流する遭難者たちは、漂流物にすがりながら、鹿児島から救助船が来るまで一夜を過ごすしかなかった。なかには、三日間も一週間も漂流して無人島に流れ着いた遭難者もいた。
 当時9歳の学童だった女性が、その時の様子を手記に記している。
 ―ドシンというものすごい音に目が覚めて、気が付いた時には、船体はほとんど沈みかけていた。救命胴衣を身にまとい、甲板にひとかたまりにいたはずの家族5人の姿が見つからない。わたしは恐ろしさと心細さにわめきたいのをぐっとこらえて、暗闇のなかを家族を探し求めた。船体は無残に破壊され、人々は波の渦と大小さまざまな物体に挟みうちにされながら悲鳴を上げ、助けを求めていた。
 人々のうめき声や、泣きわめく声が遠く細く聞こえていた。私が、あっちへ行こうか、こっちへ逃げようかと、おどおどしていると、従妹の時子に出会った。私に出合ったとたん時子は声を張り上げて泣きわめいた。もちろん私も泣きたかった。
二人は沈みかけた船の上で流れてきた醤油樽に取りすがることができた。ときどき大波がドッとかぶさって来る。
 煙突がぐらぐらと倒れていった。子供をおぶったまま海へ落ちていく夫人の姿も見えた。そのときである。ふいに大波がおおいかぶさってきて、時子が醤油樽から手を放してしまった。一人ぼっちになった私は、どうすればよいのかわからず、おろおろしながら自分の体にぶつかって来るものを取り払うのに精いっぱいだった。
 救命胴衣を頼りに泳いでいった。そこでは、一つのイカダをなん十人もの人が奪い合っている。一夜明けると、乳飲み子の男の子以外は全員女性であった。そのうち女の子は、私を含めて二人だけだった。漂流二日目の昼過ぎ、あちらこちらに、幾人かが組みになって漂流していた。漂流中、流れてきた竹筒を拾い、なかに入っていたすえたご飯を一口ずつ食べた。ふたりの老女が、ひとことも言わず死んで流されていった。40歳ぐらいのおばさん二人もいない。いつどうしていなくなったのかわからない。うっすらとした夜明けが近い頃、島はすぐ目の前にあった。イカダは島をめがけてどんどん流されていった。島に着くと、イカダを降り、四つん這いになって陸地へ向かった。私たちは助かったのです。一週間目にやっと自然漂着したのです。

 この対馬丸の遭難は極秘とされ、沖縄では固く口留めされていた。だが、うわさは徐々に広がった。そのため疎開を希望する住民はその後しばらく途絶えた。しかし、1944年10月10日、那覇が米軍の空爆で1200人が犠牲になると、疎開を希望する住民は増大し、県当局が疎開を勧める必要がなくなった。その結果、1944年7月から45年3月までの疎開者数はおよそ7万人に達した。(資料は『戦争と沖縄』岩波新書1981年刊から)

もう一人の証言者
 対馬丸遭難について一人の証言者を紹介したい。3年ほど前に、地域誌「日時計」の編集部が埼玉新聞のインタビユー記事を目にして、対馬丸の生存者が同じ春日部市の庄和地域に居住していることを知り、取材したことがあった。その後は、当地春日部市での「平和フェスティバル」(年一回の市民による平和イベント)に講師として招いたりした。
 当時、天妃国民学校の生徒であった仲田清一郎氏は、疎開の求めに応じて、8月21日、対馬丸に乗船する。その仲田氏の証言によれば、乗船した天妃国民学校の生徒100人のうち、生き残った生徒は、仲田氏をふくめてわずか3人であった。
埼玉新聞のインタビュー記事〈2014年8月17日付〉は次のようなものだった。
 「対馬丸に乗り込んだ二日目の夜、ドカーンという爆音が、寝ていた仲田さんを襲った。理性というより本能にせかされ、甲板に出た。漆黒の闇のなか、ずるずると海水に沈んだ。海面に出たところで丸太につかまった。船は沈んだようだった。仲田さんは何が起こったかわからぬまま海面を漂った。丸太に子供を背負った女性がつかまってきた。暗闇の中、何を話したかおぼえていないが、心が和み、勇気を得たように思う。だが力尽きたのだろうか、気が付くと、女性の姿はなかった。海面に浮かんでいた人影がどんどん減っていく。上級生が仲田さんをいかだに引き上げてくれた。近くに島が見えた。上級生が、イモを取ってくると言って泳ぎ始めたが、波間に浮く頭の影はまもなく消えた。
 いかだは幾度も高波にさらわれ、仲田さんは、いつしか一本の孟宗竹に半身をあずけ一人で浮いていた。意識が遠のき、視界が暗くなってきた。漁船が近づいてきたところで意識を失った。気が付くと、鹿児島県内の病院にいた」

なぜ疎開船が攻撃されたのか
 春日部市で市民が発行する地域誌「日時計」の記述をもとに考えてみたい。
ハーグ海戦条約〈1907年ハーグ国際平和会議での決定)が、交戦国の病院船など非軍事的な船舶への攻撃を禁じている。であるのに、米潜水艦はなぜ対馬丸を攻撃したのか。それを考えるとき、まず、米潜水艦が、攻撃目標とした船舶が疎開船であることを知っていたのかどうかが問題となるだろう。
 それについて、「高性能の潜望鏡で多数の学童を確認できなかったはずがない」(當間栄安著『対馬丸遭難の真相(琉球新報社)』)とする見方と、それが困難であったとする立場とがある。魚雷攻撃の任にあったアーサー・カーター元二等兵曹が琉球新報の取材に応じて次のように話している。「艦長も子供たちの乗船は知らなかった。夜間に見分けることは困難であった」。どちらが正しいかを判断するのは難しい。
 注目すべきは、ハーグ条約が「軍事物資の輸送に従事する敵国商戦」を攻撃目標とすることを認めていることである。だとすると、沖縄・奄美近海で軍事物資を輸送する27隻の船舶が米軍の魚雷攻撃を受けていたこともあり得ることであった。
では対馬丸はどのような船舶だったのだろうか。
 対馬丸は陸軍徴備の輸送船として、1944年4月から6月の間、マニラからハルマヘラへの軍事輸送に使われたことがあった。しかも、疎開船として出航する直前の8月19日に、第62師団2409名の兵と馬40頭を本土から沖縄に移送していた。そのような役割を担う対馬丸であれば、対馬丸が疎開者を鹿児島へ運んだ後、地上戦に備えて軍事物資を沖縄まで運ぶ計画があったことも想像されるのではなかろうか。
 以上から、米潜水艦ボーフイン号が、航行中の船舶が軍用船対馬丸であることは目視によって確認できたことが推測される。同時に、対馬丸の船内、あるいは甲板に子供たちが乗船していることを確認できたかどうかは定かではない。
仮に子供たちの姿を見たとしても、対馬丸が軍用の輸送船であることには変わりはない。それを知る艦長の命令によって攻撃が行われた可能性は否定できない。それが,當間栄安氏の「多数の学童を確認できなかったはずがない」という見方とも符合する。
 対馬丸は国際法上、攻撃対象として認められる「敵国商船」であっただろう。とすれば、政府と軍部は、対馬丸が軍事輸送船であるが故の危険性を、当初から認識すべきではなかったのか。1944年7月から45年3月まで、対馬丸と同時に航行した2隻をふくめ、延べ187隻の疎開船が航行したなかで、撃沈されたのが対馬丸1隻であった事実に照らすと、遭難の原因がどこにあったのかが、おのずと見えてくるのではなかろうか。
 仲田清一郎氏は講演のなかで、最後にこのように語っていた。
 「当時はショックを受け、主体的なものの捉え方ができなかった。怖れのようなものは今でも残っている。心のなかに悲しみが沈殿している。今こそ基本的なものを再認識する必要がある。沖縄だけでなく日本のあらゆる所で苦労があった。犠牲となった人々の礎があり、今の日本が繁栄している。歴史を隠すことなく、私たちは認識しておかなければならない」


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by daisukepro | 2017-11-13 19:01 | 沖縄

沖縄ノート(7)

坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

沖縄ノート(7)少年少女たちの戦場 17/09/22(表と写真はダイスケプロ)

「鉄血勤皇隊」と「ひめゆり学徒隊」
 沖縄守備隊32軍司令部は、兵員不足を補うために現地の男子中学生、高校生を「鉄血勤皇隊」として編成し戦場におくり出した(「沖縄健児隊」の呼称も)。その動員された男子生徒は、10台半ばから成人前の少年たちで、生徒の所属校と動員数は、県立第一中学校398人、第二中学校140人、第三中学校363人、八重山中学校20人、県立工業高校78人、県立水産高校49人、農林学校170人、那覇私立商業学校82人など、生徒数の合計は約1300人であった(資料は大田昌秀著『沖縄のこころ』72年刊から)。

学校名部隊名動員数戦死数死亡率
沖縄師範学校師範鉄血勤皇隊386人224人58.0%
県立第一中学校一中鉄血勤皇隊・通信隊371人210人56.0%
県立第二中学校二中鉄血勤皇隊・通信隊144人127人88.2%
県立第三中学校三中鉄血勤皇隊・通信隊363人37人10.2%
県立工業学校工業鉄血勤皇隊・通信隊94人85人90.4%
県立農林学校農林鉄血勤皇隊173人41人23.7%
県立水産学校水産鉄血勤皇隊・通信隊49人23人46.9%
那覇市立商工学校商工鉄血勤皇隊・通信隊99人72人72.7%
開南中学校開南鉄血勤皇隊・通信隊81人70人86.4%
県立宮古中学校宮古中鉄血勤皇隊不明0人0.0%
県立八重山中学校八重山中鉄血勤皇隊20人1人5.0%
県立八重山農学校(男子)八重農鉄血勤皇隊不明不明不明
合計1780人890人50.0%
出典:『歩く・みる・考える沖縄』より

 「ひめゆり学徒隊」も「鉄血勤皇隊」同様に、県下の学校から生徒を編成したもので、学校毎では、沖縄師範学校女子部120人、県立第一高女200人のほか、県立第二高女(白梅隊)65人、第三高女(名護欄隊)10人、首里高女(瑞泉隊)83人、私立積徳高女(積徳隊)25人、同じく昭和高女生徒(でいご隊)40人、計543人の女子生徒たちは、看護と救急措置について急場の教育を軍医から受けたのちに戦場に送られた。その任務は傷痍兵の看護のほか、壕を掘ることでもあったという。戦死者の埋葬のためだったのだろうか。一般の住民も徴用され、16歳から45歳までの約4万人の一般男子住民が現地入隊させられ、その後は46歳以上の男子までもが徴用された(それについては前号でも触れた。徴用人数は前出の大田昌秀氏著書による。学校毎の隊の名前は毎日新聞社刊『太平洋戦争』から引いた)。
 その犠牲者数は夥しかった。沖縄で集められた住民兵4万人のうち約3万人が犠牲となっている。その死者のなかには、「鉄血勤皇隊」と「ひめゆり隊」の少年少女たちも含まれている。

少年たちの戦場  

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 前出『沖縄のこころ』の著者大田昌秀氏(戦後は沖縄県知事を歴任)が、鉄血勤皇隊員であった自らの体験を次のように記している。やや長くなるが証言として引用する。
 ―補佐係に下士官がどなってまわった。一瞬、だれもがバネ仕掛けの人形のように、いっせいに飛び起きた。本部壕の前で隊列を整えて待っていると、少佐の襟章をつけた一人の将校が、つかつかとみんなの前に歩み寄った。「みんなよく聞け、諸君は学生ではあるが、銃を執り国家の危機に対処するに兵と変わるところはない。戦況が緊迫していることは諸君も承知の通りだ。残念なことに、いましがた近くの陸軍病院が敵に占領された。よって敵が本陣地に攻撃をかけてくるのも今明日と予想される。諸君は、今こそ郷土防衛の覚悟をあらたにして、あくまで本陣地を死守せよ」。
 いよいよ来た。言われるまでもなく、わたしたちは決意を固めなければならなかった。内心にうごめく不安を押しのけるように、わたしたちはお互いに顔を見合わして頷いた。いまさら不安におののき、ジタバタしたところでどうなるものではない。一歩壕外へ出ると、砲声が間近に炸裂し、肉迫してくる敵の気配がじかに感じられておのずと身が引き締まる。
 わたしたちは、壕全面の丘陵の手前斜面に、ほぼ4メートルおきに横に散開した。各人は、交互に警戒に当たりながら蛸壺壕を掘り始めた。時刻は午前2時を回ったところ、雨は小降りのまま続いており、あたりの空気は、いやにひんやりとしていた。ときどき打ち上げられる曳行弾に続いて、タタタタ、機関銃がひときわ高く咆哮すると、つぎの瞬間、不気味な沈黙に戻った。5、600メートルはあろうか。敵に占領されたという軍病院壕のある丘が前方に黒々と横たわっていた。(中略)急遽、蛸壺壕に腰まで入って銃を構えていると、奇妙にも心は平静で、第一線にいるという深刻さはない。路上で砲弾の餌食となるより、せめて死ぬ前に一発でも侵入者にぶっ放してやりたいというのが、隊員の切実な願望であったせいだろうか。(中略)「なあみんな、ひめゆり部隊も最後をとげたようだから、俺たちもここで死のうや」、隊長の伊豆味君が冗談とも本気ともなく言った。情報宣伝の途中、千早隊員はしばしば軍病院に立ち寄り、女子学生たちの奮闘ぶりを目撃していた彼が、ひめゆり部隊や女子挺身隊の活躍ぶりは、銃をとる男子学生の労苦にまさるものだった、と言った−。

 その後、首里の32軍司令本部が陥落し、軍部と生き残った兵が本島南部へと逃れると、各所の陣地(壕)の兵も南へと敗走した。その時、小銃とわずかな銃弾を手にした少年兵たちは、米軍の火力と兵器に対して、ほとんど無力であっただろう。少年兵の一人が洞窟で看護する少女たちの労苦を讃え、自らを励ましている。死を覚悟しなければならなかった少年たちの心情が健気なだけに、いっそう痛ましい。

少女たちの悲劇
 少女たちは、傷病兵の看護のために野戦病院に配備されたのだが、そこは病院とは名ばかりで、傷痍兵を収容するための壕(洞窟、ガマ)であった。
 壕の中は暗く、傷痍兵たちのうめき声と腐臭に満ち、横たわる兵たちの看護を求める声が絶えなかった。洞窟の中で献身する500人余の16、7歳の少女たちは、傷痍兵の看護に献身した。そうしたなか、壕の中で米軍のガス弾や火炎銃によって殺され、あるいは手榴弾によって自ら命を絶っていった。自決を迫られたのは、兵、住民同様に捕虜となることが禁じられていたからだった。それらの死者数は「ひめゆり学徒隊」の半数以上であったという。
 壕に危険が迫ると、軍は移動が困難な傷痍兵を残して壕を去り、少女たちは軍とともに南へ南へと逃れていった。5月になると陣地は次々と陥落し、米軍の壕への攻撃はいっそう熾烈となった。壕を後にした少女たちは、梅雨時の泥沼の中を、傷痍兵を助けながら歩き続け、島の最南端まで追い詰められていった。
 戦後奇跡的に生き残った少女が、その時の壕の中の様子を次のように記している。
 ―壕の中はランプが一つ二つ、夜昼なく灯されていた。雨降りのあとのように、しずくがひっきりなしに頭の上に滴り落ちていた。歩くと、ばたばたとズボンの裾が泥だらけになった。地面から高さ10センチとない寝台がぎっしりと並べられ、傷痍兵が3、40人、ずらりと横たわっていた。寝台といっても、薬品の空箱や雨戸を利用したものばかりであった。頭、顔、胸、腹、背、手、足と、包帯で巻き付けられた負傷兵のうめき声が昼夜絶えることがなかった。これが私たちの勤務する陸軍病院の壕であった。
(中略)「便器を貸してください」「尿器をください」と前後左右からひっきりなしに呼びつけられる。そのうち、「看護婦さん、包帯を取り換えてくれませんか」と弱々しい声がする。見ると、膿で表面までがすっかり濡れている。包帯を解きガーゼを離したとたん、膿が水のように流れ出した。「この患者は少し切断する。足をつかまえておけ」と軍医にいわれて、傷口をメスで切り取るのを見ていると、血の気が引いてふらふらした。「これくらいのことで貧血を起こして看護婦といえるか、ばかやろう」、軍医の声にはっとして気を取り戻す。血と膿が手から流れ落ちる。患者は泣き声をたてる。また軍医が怒鳴る。すばやくふき取って包帯を巻く。壕の中で息絶える兵が増えていった。死体は毎日4、5人、朝夕の空襲の合間を見出して埋葬した。4、5メートルおきに弾痕がある。崩れかかった坂道をタンカで運ぶときの苦しさ、なんどか死体を置いて、またタンカを運んだ−
(以上は池宮城秀意著『戦争と沖縄』からの引用)。

 こうした実話を知る人は決して多くはないであろう。日本で唯一地上戦となった沖縄での少年少女たちのこのような悲劇は、現在、私たちに何を語りかけ、何を訴えているのだろうか。
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by daisukepro | 2017-11-13 18:58 | 沖縄

沖縄ノート(6)

坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

沖縄ノート(6)「沖縄戦」とはどのようなものだったのか(後) 17/08/25

避難と敗走
 アメリカ軍の上陸地点となった読谷山、嘉手納、北村付近の住民が米軍上陸の事実を知ったのは上陸の三日後だった。それまで、住民は空襲を避けて防空壕や墓の中に身を潜めていた(沖縄の墓は丘の斜面などに掘られていることから壕として避難に適していた)。
 米軍上陸後は、手榴弾によって自決した住民もいたのだが、米兵の指示に従って恐る恐る壕から出て捕虜となり、米軍が用意した収容所に送られる住民もいた。あるいは激戦地を離れて南へと逃れて行った住民も多かった。
 首里防衛を断念した沖縄第三十二軍は、住民に続いて南部の島尻への移動を始めた。空軍の特攻攻撃も敵軍の戦力を削ぐまでには至らず、海軍に援護を求めたのだが、主力艦「浜風」「大和」「矢矧」はすでに撃沈され、海の藻屑と化していた。

鉄血勤皇隊
 沖縄戦では、本土出身の約6万5000人の兵(その多くが中国と南方からの配備)と、沖縄で集められた約3万人の即製の兵と、一般民間人約9万4000人が犠牲となった。そのほかに、朝鮮半島から軍夫(強制徴用された労働者)と従軍慰安婦約1万人も犠牲となっている。一般民間人の犠牲者数はおそらくそれ以上であっただろう。それら正確な数はいまなお明らかになっていない(新崎盛暉著『沖縄現代史』岩波新書から) 。
 沖縄の青少年の犠牲も少なくなかった。中学生や師範学校の生徒が兵(学徒)とされ、下級生は電話線の仮設工事、発電機の操作などに動員され、上級生は「鉄血勤皇隊」として編成され、機雷を担いで突撃する「肉薄攻撃」に使途されたが、半数以上が戦死した。首里攻防最後の砦であった弁ケ岳の戦闘では、学徒だけで編成した一個分隊全員が「肉薄攻撃」によって全員が戦死した。15歳で徴用された『戦争と沖縄』の著者池宮城秀意氏が、徴用された当時の様子をこのように語っている。
「私たちの集団には軍人らしいものは一人もいませんでした。小隊とか中隊といっても全部社会人ばかりです。ちょうど今でいえば、PTAの人たちを急に招集して軍隊にしたようなものです。巻脚絆を絞めたことさえない者ばかりでしたので、まずこれを練習しなければならないというありさまでした。これでは軍隊にならない、ただの集団にすぎません。日本陸軍の二等兵ということになっていましたが、まさに子供と大人の寄せ集めをしたものが防衛隊だったのです」

「かく戦えり」
 沖縄で最も川幅が広い国場川が軍と住民の南下を妨げていた。その橋を渡らなければ南の島尻へ行くことができなかった。その川の上に架かる真玉橋周辺をアメリカ軍は狙い撃ちした。そのため、真玉橋一帯は死屍累々となった。命をとりとめて渡り終えた住民も、その後は飢えに苦しみながら南部の戦場をさまようことになった。
 一方、南部の摩文仁へ撤退した第三十二軍は、完全に包囲されていた。中部の小禄にあった海軍の部隊は南下ができず、そこでも孤立していた。援軍のない部隊の孤立は死を待つしかない。最期を決意した海軍の太田司令官が海軍次官あてに次のような電文を送っている。
「沖縄に敵が上陸をはじめてから、陸軍も海軍も戦闘に専念し、県民のことはほとんどかえりみるひまがなかった。しかし私の知る範囲では、県民は青壮年の全部が防衛招集になり、残った老幼婦女子は、あいつぐ砲爆撃で家や財産は全部焼かれてしまい、きのみきのままで、軍の作戦に邪魔にならない所の小さな防空壕に避難し、風雨にさらされながら困難な生活をおくっている。(中略)陸海軍は沖縄に駐留してから、ずっと勤労奉仕や物資の節約を強いられながら奉公したが、報われることなく、戦争は末期になり、沖縄島は焦土となるであろう。沖縄県民かく戦えり、県民にたいし後世特別の御高配を賜らんことを」
 その後、太田司令官が自決したことを思えば、電文は良心の吐露ともとれる。絶望的戦況も住民の惨状も書かれている。だが、軍による住民虐殺の事実をどれほど知っていただろうか。

殺戮と集団自決
 沖縄では、軍人9万4000人、住民15万人といわれる人命が失われ、生き残った人々も地獄と化した戦場をさまよった。その80日あまりの沖縄戦は、6月23日にようやく終結する。
 沖縄戦といえば、ひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊が語り草ともなるのだが、沖縄では、さまざまな殺戮があったことが語り継がれている。沖縄戦は、日本軍の蛮行による血塗られた悲劇でもあった。兵隊と住民が雑居する洞窟(ガマ)で何が起きたのか。
 ガマに逃げ込んだ軍隊と住民の食糧は、日を追うごとに底をつきはじめ、弾雨あられの中で、飲み水を探すことさえできなかった。傷ついた体は、やがて腐り、兵と住民がともに隠れるガマの中には腐臭が漂っていた。
絶望的な日々を暮らすうち、兵士たちの恐怖が住民に対する猜疑心を増幅させた。米兵に居所を知られたくない彼らは、住民の密告を恐れ、それが、同胞住民の殺戮へと向かった。
 兵たちは、ガマを出ようとする住民を背後から射殺した。米兵に気づかれるのを怖れ、泣く子を母親から引き離し殺した。そして住民を集団自決へと追いやった。陣地付近をうろつく住民がいると、それをスパイだとし、殺した。見せしめに同じ住民を使って殺させることもあった。
 軍は住民に集団自決を強要した。米軍最初の上陸地点となった慶良間列島の渡嘉敷島では、日本軍によって島民329人が集団自決に追い込まれた。座間味島では、軍が農産物と食糧を統制し、供出に違反する島民をつぎつぎと殺した。日本兵が同胞である住民を殺すことをためらわなかったのは、太田司令官軍の電文から読み取れるように、軍の目的が住民の生命を守ることではなかったからだが、それに加えて、兵たちが他民族の殺戮を当たり前とする中国などの戦地から配備されていたことが考えられる。(以上は、主に池宮城秀意著『戦争と沖縄』を資料とし、筆者の考えたことも加えて書いたものだが、住民の死者数が前出著『沖縄現代史』の数とは異なっている。「(その数は)いまだに明らかになっていない」と新崎盛暉氏は著書のなかで述べている)。

さまざまな殺戮
 次は、著書と国頭村の村史から殺戮の証言を拾い出したものである(村史は赤旗から引用)。

◇15歳の時、目の見えない母と10歳の弟二人を連れて逃げ回った。飲む水もなく、池から水を汲んできて飲んだ。その池には死体が浮かんでいた。いつかは日本軍が助けに来ると思っていた。だが信じていた日本軍は沖縄の人を殺した。戦争に負けるのをわかっていた日本軍は民間人を壕(ガマ)の入り口近くに追い出し、自分たちはガマの奥に隠れていた。子供が泣くと、口にタオルを押しこんたり、子供を母親からとりあげて殺した。自分の子供を日本軍に殺されるより、親子ともガマを出て弾に当たって死ぬ方がいいといって出ていく人が多かった。アメリカに助けられたのはありがたい。でも戦争をしたのが憎い。(国頭村制度施行百周年記念村史「くんじゃん」)

◇「五、六人の白ハチマキの女が、エイ、エイと声をあげながら、電柱に縛り付けられた女を短刀で交互に突き刺している。傍らに立つ兵が、しっかり突かんか、と大声をあげている。女の泣き声は断末魔の声となった。と同時に、短刀を突き刺す女たちの掛け声は泣き声に変わった。この時、どけ、どけ、と日本兵が女たちを押しのけると、腰の刀を抜き放ち、縛られた女めがけて刀を振り下ろした。すると女は首を垂れ、動かなくなった」(首里近くで目撃した学徒兵の証言)

◇伊江島では、アメリカ軍の命令で若い女五人と男一人が赤松の日本軍陣地に白旗をかかげ向かった。彼らは陣地近くで捕縛され、それぞれの穴を掘ることを命じられ、その後は、後ろ手に縛られ、穴の前に座らされた。日本刀を抜きはらった下士官が「言い残すことはないか」ときいた。三人の女が歌を歌わせてほしいと答えると、許され、軍歌「海ゆかば」を歌ったが、男女五人とも斬殺された。(岩波新書『沖縄』63年刊)

◇半地(地名)に読谷村から多くの人が避難していた。「知花屋」に居住していた数名の読谷村民が日本兵に「スパイ」だとされ、百メートル先のザークービー(座峠)に連行され、4人から5人が手首を縛られ、めった斬りされ、一面に血が飛び散っていた。(同記念村史)

◇戦火が及ばなかった浜に近い桃原で、「盛栄オジー」は、山中の小屋に避難している人の下山を促していたことから、スパイの嫌疑をかけられていた。そんな折、那覇市から桃原に避難していた高嶺さん一家を日本兵が襲撃し、手榴弾のような爆発物を投げ込んで妻を死亡させた。狙われていた「盛栄オジー」一家と間違えたのではないのかと囁かれた。死亡した妻の死体は頭から顔面、手足が焼けただれた無残な姿だった。(同記念村史)

◇沖縄戦終焉の6月23日から、その10日後の7月4日、宣名真、辺戸の住民4人(男)が、米軍が設置した収容所から解放され部落に帰る途中、追いかけてきた敗残日本兵数人に襲われ殺された。敗残兵は「収容所に入った者はスパイだ」と言っていた。(同記念村史)
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by daisukepro | 2017-11-13 12:54 | 沖縄

沖縄ノート(5) 

坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

沖縄ノート(5) 「沖縄戦」とはどのようなものだったのか(前) 17/07/30

 沖縄戦について、その戦況をざっと追ってみる。

米軍上陸前
 沖縄に守備軍として12万の第32軍が配備されたのは米軍上陸前年の1944年であった。
 その動機となったのは、中部太平洋上のトラック島への米軍の侵攻であった。戦況を危ぶんだ大本営は急遽、作戦会議を開き、沖縄をふくむ南西諸島や台湾方面の防衛強化に乗り出した。
 それまで、沖縄では陣地や飛行場が造られ、その建設労働に住民が駆り出されるなどしていた。飛行場の建設は特攻隊の攻撃に備えるためだったのだが、それ以外は、沖縄本島の中城湾や西表島に要塞を建設する程度で、地上戦への備えらしきものはなかった。当時の兵隊たちは住民の家や学校などに寝泊まりし、住民と雑居する日々を過ごしていた。
 1944年10月、沖縄は大規模な空襲に見舞われ、建設した基地のほとんどが破壊された。その後は米軍の偵察機が上空を飛行するようになった。
 1945年3月23日、沖縄本島が再び激しい空襲に見舞われると、その日の夕刻には、本島の南90キロに、海一面を覆うかのような夥しい艦艇群が姿を現し、翌日には艦載機による空爆と、本島南部への艦砲射撃が一斉に始まった。沖縄戦の始まりである。

作戦の失敗
 沖縄に配備された32軍の司令部は、当初の沖縄南部への艦砲射撃から推して、米軍が本島南部の湊川方面に上陸するものと判断し、南部を固める作戦をとった。それにより、米軍の上陸地点を本島南部の島尻と見立て、軍の主力を集中させ攻勢に出る、本島中部の中頭方面に上陸した場合は、地上での持久戦で戦うという作戦を立てた。
 そのため、本島中部(嘉手納)、北飛行場(読谷)の高射砲部隊を南下させ、部隊を首里近くの識名に移した。さらに、北飛行場(読谷)と嘉手納飛行場を放棄し兵員を移動させた結果、本島中部は手薄となっていた。
 3月25日、米軍は本土の西20キロの、無防備であった慶良間列島に砲撃を加え、続いて座間味島、伊江島に上陸を開始した。本島南部に上陸するものと判断した軍司令部は裏をかかれる結果となった。さらに、米軍は那覇から10キロ離れた神山島にも上陸、砲台を据えて32軍の根拠地である首里に向けて砲火を浴びせ始めた。
 やがて本島の南と西の海上を、戦艦10隻、巡洋艦9隻、駆逐艦23隻、砲艦117隻、大型輸送船80隻、戦車上陸用舟艇(LST)80隻、小型舟艇400隻という、世界海戦史上最大ともいわれた艦隊が海上を埋め尽くし、慶良間列島から沖縄本島中部への上陸作戦を開始した。
 戦後、沖縄の或る参謀が、当時の作戦について率直に語っている。
 「アメリカ軍の上陸予想地は数か所あったが、兵力が不足するので全部は守れない。簡単に表現すれば、試験にやまをかけてはずれたということになる」。

エイプリルフール
 1945年4月1日、米軍は沖縄本島中部の北谷、嘉手納、読谷山の海岸に上陸した。その時、日本軍の主力は南部の島尻にあり、上陸は何の抵抗もなく行われた。
 日本軍の猛攻撃を覚悟していた米兵たちは、その日が4月1日であったことから「エイプリルフールではないのか」などと言って不思議がったという。兵員移動後、残されたわずかな兵力では、米軍機の空爆と海上からの砲撃の中で、なすすべはなかった。
 上陸した米軍は、無人の境を行くかのように、その日のうちに二個師団と戦車すべてを運び終えた。慶良間や座間味の離島でも、彼らが恐れていた戦闘はなかった。
 伊江島に上陸した従軍記者アーニー・パイルは、その時の様子を次のように書き残している。
 「みんなには、上陸するときは雨あられと降る弾丸、砂を跳ね飛ばす迫撃砲弾や野砲のうなりのなかに突っ込んで行くものだとの予想があった。だが、前方からは一発の弾丸も飛んでこない。ウソではないのだろうか。上陸作戦にはつきものの大量殺戮の場面は、そこでは見事と言っていいほどなかった。いまだかつて私は沖縄のような上陸作戦を見たことがなかった。部隊に一人の戦死者もなく、一人の負傷者もなかった。衛生兵たちは、ほうたいや医薬品、担架などのそばになすこともなく座っていた」。
 だが、やがて熾烈な戦闘が繰り広げられることになる。


「捨て石」
 米軍が戦わずして上陸ができたのは、前述のような上陸地点判断の誤りと同時に、沖縄守備隊には、沖縄を防衛するだけの戦力そのものが不足していたからであった。その兵員不足の背景には次のような事実があった。
 1944年、アメリカ軍がレイテ島に上陸、フィリピンでの戦闘が不可避となり、大本営はフィリピン方面へ兵団を移すことを決定した。そのため、大本営は、米軍の上陸を目前にした44年の12月、沖縄の精鋭師団であった第9師団を、現地司令官の反対を押し切って、台湾に移すという措置をとった。そのため、沖縄守備隊の戦力不足は決定的となっていた。
 大本営は、この作戦に一時は難色を示したともいわれるが、結局は、持久戦を認めながら、現地の派兵要求には応じなかった。しかも大本営は、米軍上陸の2週間前に32軍指揮官の入れ替えまで行い、沖縄の地形も部隊の実情も知らない指揮官二人を、中国戦線から移動させ、沖縄に着任させた。そのことからも沖縄防衛隊の弱体化は避け難かった。
 政府と大本営が、米軍の本土進攻を遅らせるために、沖縄を「捨て石」としたことは明らかである。米軍の沖縄上陸に直面し、一方、フィリピンへ増兵を迫られた大本営の狼狽と混乱をも窺がえるのではないのだろうか。

上陸後
 1945年4月、沖縄本島中部の嘉手納海岸に上陸したアメリカ軍は、無防備となった読谷山の北飛行場をその日のうちに占領、その後、東から南へと侵攻、北谷海岸に上陸した部隊も南へと向かった。アメリカ軍は西海岸と本島中心部、東海岸の三方から攻略し、沖縄本島を南北に断ち切る作戦であった。それを許したのは、32軍司令部が上陸地点となった中部の中頭地区を無防備としていたからだった。
 上陸後、アメリカ軍は日本軍の司令部が置かれていた首里を目指して南下を始めた。32軍司令部は動揺し、「攻勢」に出るか、「守勢」に回るかの作戦を迫られた。沖縄守備隊司令部は立場上、「攻勢」を主張したのだが、きわめて困難であった。

嘉数高地
 嘉数(かかず)高地は、陣地の置かれた浦添城址に近接し、沖縄守備隊32軍の「防壁」とされた最重要地点であった。その一帯で両軍の攻防が繰り返され、嘉数は沖縄戦最大の激戦地となった。そのことから沖縄戦の天王山ともいわれている。
 4月19日、沖縄守備隊は、奪われた嘉数「七〇高地」奪還のために夜襲攻撃を試みた。だが失敗する。その後、アメリカ軍は嘉数高地正面を攻撃、それに対し守備隊は、臼砲、迫撃砲、機関銃で反撃し、壮絶な地上戦となった。
 だが、45万の兵に対し兵12万、衆寡敵せず、武器、火力で圧倒された沖縄守備隊は三分の一の兵を失う結果となった。その後も日本軍は各地で苦戦を重ね、守備隊は嘉数高地からの後退を余儀なくされ、南へと軍を移した。
 4月下旬、米軍の攻撃はいっそう激しさを増し、守備隊の兵員は減り続け、残った兵員を合同せざるを得なかった。戦況の悪化とともに、新たな戦略を迫られた守備隊は、東と西の海岸から北上し、丸木舟や特攻艇によって米軍の後方からの攻撃を試み、西海岸から上陸した部隊が死闘を挑み、米軍を怖れさせ、かなりの損害を与えたものの、自軍のほとんどが戦死した。


「肉薄攻撃」
 5月になると、日本軍は包囲され完全に孤立し、司令部との連絡さえつかない状態となった。戦況が絶望的となると、歩兵に機雷を担がせ米軍の戦車めがけて突っ込むという「肉迫攻撃」を繰り返した。海上でも、魚雷を積んだ魚雷艇で米艦船に突っ込む「肉迫攻撃」で戦った。
 当時の政府は沖縄の戦況をどう理解し、何を考えていたのだろうか。
 当時の鈴木貫太郎首相が、現地将校と官民向けの放送〈4月26日〉を通じて、一億国民の一致団結を訴え、天皇に仕えるべきと諭し、そのうえで次のように伝達している。
 「我が肉弾による特攻兵器の威力に対しては、敵は恐怖をきたしつつある。今後、日本独特の作戦に対して、敵の辟易することは火を見るよりも明らかである。私は、諸君がこの神機をつかみ、勝利への鍵を確かと握られることを期待してやまぬ。わたしども本土にある国民もまた、時来たらば、一人残らず特攻隊員となり、敵に体当たりをなし、いかなる事態に立ち至ろうとも、絶対にひるむことなく、最後まで戦い抜いて、終局の勝利を得んことを固く決意している」。
 肉弾攻撃を賞賛する勇ましい内容である。だが、「終局の勝利」とは何を意味していたのか。沖縄戦は勝利を掴む「神機」だったのか。その年の8月、日本は降伏し戦争は終結した。鈴木首相の回顧録には、就任当時から終戦を決意していたと書かれているという。

※以上は主に池宮城秀意著『戦争と沖縄』(1980年版)を資料とした。戦闘経過を示す地図も同著から。写真は『大日本帝国の戦争』(毎日新聞社)から転載した。沖縄出身の著者は、少年のころ「沖縄防衛隊」に徴用され、米軍の捕虜となった経験を持っている。戦後は「うるま新報」編集局長、琉球新報社長、会長を歴任した。次号では著者の見た戦場での沖縄県民の悲劇に触れてみたい
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by daisukepro | 2017-11-13 12:51 | 沖縄

沖縄ノート(4)

坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

沖縄ノート(4) 尖閣防衛・抑止はユクシ 17/07/01

 政府はことあるごとに、在日米軍が日本を守るための「抑止力」だと言っている。米国大使やアメリカの高官も、それを、ほのめかすように「尖閣は日米安保条約の適用範囲内」などと言っているのだが、それらは、日本政府を喜ばすためのリップサービスであろう。
 ところで、「よくし」と似る音の「ユクシ」は「嘘」を意味する沖縄の方言である。昨年、安倍首相がワシントンでトランプと会談した折に、トランプ大統領も「尖閣は日米同盟適用の範囲内」と、安倍首相に伝えたことがあった。安倍首相が相手に言わせたとも推測されるが、その大統領の言質をメデイアはビッグニュースのごとく取り上げ、「読売」などは号外まで出した。それによって、尖閣有事の際に在日米軍が出動するかのごとく理解した国民もいただろう。
 だが、「安保条約の適用範囲内」とは具体的に何を意味するのだろうか。
 日米が取り交わした「日米防衛協力のための指針」に、「島嶼防衛の第一義的な責任は自衛隊が担う」と書かれている。米国は尖閣防衛には介入しないことを意味しているのではないのか。「指針」には「支援、補完」とも書かれているのだが、その米国の行動内容は不明である。
 


米軍の準機関紙「スターズアンドストライプス(星条旗)」が、尖閣防衛について、「岩をめぐる中国との撃ち合いに俺たちを巻き込むな」とする記事を載せたことがあった(2013年2月3日号)。米国の軍が尖閣防衛のために、自国の兵の血を流すのはやめてほしいと言っているのである。

 戦争法をめぐる国会論議で、安倍首相が「日本を守るために米国の若者が血を流す。自衛隊は米軍を助けない。それでいいのか」と熱弁をふるっていたのを、今にして思い出す。これも、ためにする「ユクシ」であろう。国会で示した、あの「お年寄りや子供を助けるために・・・」といった、在留邦人を乗せた米国の輸送船を自衛隊が援護するというパネル絵(尖閣とは関係なさそうだが)も、非現実的、情緒的フイクション、「ユクシ」であった。
 だいいち、米国は尖閣諸島が日本の領土だとは認めていない。尖閣が日中どちらに帰属するかについて、米国は中立という立場を一貫して取っている。と、すれば、中国を敵国として米軍が出動するはずがない。連邦議会がそれを認めるとも想像し難い。

 では万が一、尖閣諸島で偶発的局地戦となった場合、「支援、補充」のために、海兵隊の出動が現実に可能なのだろうか。以下は沖縄国際大佐藤学教授の見解である。
 航続距離が長く、飛行速度が高いオスプレイであれば、沖縄から尖閣まではひとっ飛び、と考える人もいるかもしれないが、機体がヤワなオスプレイは戦場では使えない。南スーダンでは銃弾が機体を貫通して搭乗兵が命を落としている。そのように、銃撃されれば逃げざるを得ないオスプレイが、尖閣諸島での銃撃戦では役に立たない。尖閣の小島に海兵隊を運んだとしても艦砲射撃の餌食になるだけである。
 では、「島嶼防衛の第一次的責任を担う」とされる自衛隊が中国軍と戦った場合、事態はどうなるのだろうか。『沖縄米軍基地問題プロジエクト』編、解説書は、日中間の局地戦となった場合を次のように想定している(筆者は前出沖縄国際大・佐藤学教授) 。

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 もし、自衛隊で尖閣を「守る」戦争をするという前提に立ったら、どのようなことが起きるのか。尖閣が武力攻撃を受けると、国民保護法に従って、石垣市と宮古島周辺の島嶼自治体の住民は避難させなければなりません。この地域の人口は10万人以上です。戦闘への自衛隊の輸送をしつつ、同時に10万人をどうやって、どこに避難させるのでしょうか。現在、自衛隊の「南西シフト」により、自衛艦の不足が懸念され、民間船舶・船員を一時的に使うことが計画されています。その状況で、船や飛行機で10万人を避難させることは不可能です。
 また、尖閣で戦争になれば、即座に沖縄県への観光客はいなくなります。沖縄経済の一割が消滅します。さらに沖縄県が紛争地域になれば、県民が消費する食料・燃料・貨物を運ぶ貨物船も来なくなるか、保険料が高騰し、県民の生活が成り立たなくなります。
 日本国民は、沖縄だけが被害を受けると考えるでしょうが、日本が中国と戦争をすれば、日本経済はもちません。株価は暴落し、日本の製造業も成り立たなくなります。中国人爆買い観光客がいなくなるどころでは済まないのです。日本経済が崩壊します。最後は戦争だ、というような気分が広がることが、このような危機に導くのです。

 米中間の戦争が避けられないとする見方が一部に存在する。中国の経済力の増大が米中間の軍事的覇権争いを不可避にするという見解である。だが、そうだろうか。
 たしかに、この数年、経済成長率の鈍化が見られるとはいえ、改革開放以来の中国は、2025年頃までに米国を追い越すと予測されるほど経済発展はめざましい。その経済規模の拡大を可能にしたのは、輸出と海外からの投資であった。その輸出相手国の一位は米国であり、米国の中国への投資も中国経済にとって重要となっている。米中両国は経済的に相互依存関係にあるといえるだろう。
 しかも、米国債の最大保有国は、現在、日本を抜いて中国なのである。その償還を中国が要求したら米国の国家財政は痛手を被るだろう。であれば、双方とも戦争による直接対立は想定しがたい。したがって、米国としては尖閣をめぐる日中間の争いなどへの介入は避けたいところだろう。輸出に依存しない内需主導への転換が困難な中国としても、対米関係は外交上最重要課題となっている。それに、中国は独立志向が強まる香港、台湾との軋轢にも対処を迫られている。尖閣領有どころではない。
 中国は、2002年に東南アジア諸国連合(ASEAN)に参加し、「南シナ海行動宣言」を合意している。それ以後は、他国が実効支配する島嶼や岩礁への手出しは控えている(他国の実効支配がないとはいえ、領有権の定まっていない南沙諸島の一方的占有は問題ではあるが)。

 「行動宣言」は「領有権問題の平和的解決、実効支配拡大の自粛」を謳ったものであることから、中国政府は「尖閣問題棚上げ論」の立場に立っているのではないだろうか。その是非はともかくとして、尖閣の帰属問題は日中間で話し合うべきであろう。ことさら中国を脅威と見做す日本政府の外交姿勢は、日米関係をも揺るがしかねない。日本政府の姿勢は米中両国の姿勢とも異なっている。その外交姿勢は国際常識にも反していると言えるだろう。

 


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by daisukepro | 2017-11-13 09:15 | 沖縄

沖縄ノート(3)

坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

沖縄ノート(3) 地上戦と犠牲者 17/06/26

(記述は新崎盛暉『沖縄現代史』、沖縄タイムス『誤解だらけの沖縄基地』、日朝協会機関誌『日本と朝鮮』を参考資料とした)

沖縄戦と6月23日
 沖縄は太平洋戦争で地上戦が戦われた唯一の日本の領土であった。
 敗色濃くなった1945年、日本軍沖縄守備隊が住民を動員し、沖縄諸島に航空基地と陣地建設に取り掛かった。航空基地建設は特攻隊による攻撃を準備するためであった。そのため、米軍の来襲を前にして住民は逃げる機会を失った。4月、沖縄本島に米軍が上陸、日本軍は水際で戦うことを避け、地上での持久戦に持ち込んだ。その間、上陸地点であった読谷村や嘉手納では数千人の島民が放置され、逃げ場を失い集団自決に追い込まれた。
 米軍45万人に対し、沖縄守備隊は12万人であった。戦況は日本軍の劣勢となり、首里城地下室に置かれた司令部は補給を断たれ、南部への撤退を始める。本土決戦にそなえて、そのための「捨て石」となることが命じられた。
 司令部が陥落すれば戦争は終結すると判断した島民は南部へと逃れ、多くがガマ(洞窟)で避難生活を送っていた。そこへ、南下する日本軍が割り込んできた。戦況が絶望的となると、住民に集団自決」が命令され、「スパイ狩り」が横行し、多くの住民が日本軍によって殺された。
 それらの死者を含め、民間の沖縄住民の死者数は13万人から14万人、全島民の4人に一人が犠牲となった。沖縄戦での日本兵戦死者が約7万3000人、米兵の戦死者1万4000人であったから、一般住民の犠牲者数が最も多かったことになる。前田栄子氏(基地のない沖縄をめざす会)はこのように記している(日朝協会機関紙の引用)。
 毎年6月23日は、あの戦争で失われた、たくさんの犠牲者に「二度と戦争は繰り返さない」と誓い、冥福を祈る慰霊の日だ。正午のサイレンで全県民が一分間の黙とうを捧げる。あの沖縄戦は、住民を巻き込んでの、この上ない地獄としか言い表す言葉が見つからない。勝ち目のない戦争で人口の三分の一近く、十数万人の尊い人命を犠牲にしている。幼い子供たちから高齢者まで、艦砲射撃や爆撃による戦死、餓死、自決、集団死、友軍(日本軍)による殺戮、そして戦後は、一家全滅あり、戦争孤児ありで、沖縄のどんな人もあの戦争と無関係ではない。生き残っても長くトラウマとして心の奥深くで苦しめられている。 

「銃剣とブルトーザー」
 戦後は、米軍の占領下で日本の全土に米軍基地が置かれたのだが、本土では、その多くの基地が日本軍の基地敷地跡に造られた。それが旧安保条約によって日本側に米軍基地提供が義務付けられることになる(全土基地方式)。だが沖縄は本土とは異なっていた。米軍占領下の沖縄では、基地建設のために、住民は「銃剣とブルトーザー」によって、土地を奪われ、家を壊され、立ち退きを強制された。
 現在、米空軍・海兵基地となっている普天間は、かつては1万3635人の人々が住む村落であった。現在は滑走路となっている中心部では、8800人の住民が平和な暮らしを営んでいた。そこには、村役場があり、小学校、郵便局があり、砂糖キビを絞る小屋や村人が集う闘牛場があった。沖縄戦が始まると村民たちはそこを去り避難した。1万5000人が住んでいた読谷村では、日本本土攻撃に備えるための滑走路建設のために、民家はすべて破壊された。沖縄本島の中部と南部では、民家のすべてが取り壊わされ、その跡地に18本の滑走路が造られた。
 戦火がおさまると、住民は急ごしらえの小屋に収容され、食べるにこと欠く日々を過ごした。
 当時を知る仲村元信さんがNHKの番組の中でこのように語っている。
 「空腹を我慢できずに収容所を抜け出して海岸に行くと、米兵が食べ残したパン屑、果物などが流れ着いていた。大人も子供もそれを拾って食べた。パンは乾かして食べた」。
 収容所の中は豚小屋同然だった。環境は劣悪、食糧らしきものは与えられず、飢えに苦しみ、マラリアが蔓延した。
 米軍は住民を12の収容所に送り込んだ。1945年6月には、県民の90%、30万人が収容所に送られている。沖縄では戦後も6300人が命を落としたという。

「平和の礎(いしじ)
 戦後50年となった1995年、沖縄県は沖縄戦終結50周年最大の記念行事として、糸満市摩文仁の丘に「平和の礎」を建設し除幕式を行った。その記念碑には、敵味方・国籍の区別なく、沖縄戦で戦没した24万1414の名前が刻まれている。
 除幕式が行われた6月23日のテレビ画面には、誰であるかもわからない戦没者の名を涙ながらに指でたどる年老いた老女の姿があった。その後も花や線香をたむける人が後を絶たない。沖縄を訪れた年老いた数百人の米国人退役軍人が嗚咽しつつ、刻まれた戦友の名前を写し取る姿もあった。彼ら退役軍人たちは、かつての日本の敵国兵の名を、ともに刻む沖縄の人々の寛容さに感動し涙を流した。除幕式に出席したモンデール駐日大使は、「戦争記念碑に米国の犠牲者も刻名した沖縄のみなさんに、米国を代表して感謝したい」と述べている。
 だが、そこに刻まれた人々の名は沖縄戦の戦没者だけではなかった。中国大陸やアジア各地で敵国民の命を奪った沖縄出身者たち、広島、長崎で被爆死した沖縄出身者、戦争マラリアの犠牲者、遭難船の犠牲者の名も含まれている。沖縄戦を指揮した日本軍司令官牛島中将や長参謀長、住民を自決に追いやった兵たち、住民をスパイだとして殺した兵たちの名も刻まれている。
 とりわけ問題視されたのは、少なくとも数千人に上るといわれる朝鮮人慰安婦と軍夫の犠牲者の扱いである。「平和の礎」に刻まれた名は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)82人、韓国365人でしかない。それについて、韓国民団地方本部団長が除幕式の式辞で述べている。
 「ここで忘れてはならないことは、犠牲者の遺家族のなかで、子々孫々永代の恥辱であるとの理由で、刻名を拒んだ方々がおられたということです」。
 「日朝協会」資料によれば、「平和の礎」に刻まれた出身地別、国別死者数は、沖縄県14万9425名、県外都道府県7万7417名、米国1万4009名、英国82名、朝鮮民主主義人民共和国82名、大韓民国365名、合計24万1414名である。

(続く) 


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by daisukepro | 2017-11-13 09:12 | 沖縄

日本は途上国の石炭火力発電所への投資をやめろ(赤旗)

 【ボン(ドイツ西部)=岡本あゆ】ドイツ・ボンで開催されているCOP23(国連気候変動枠組条約第23回締約国会議)で、石炭火力への批判が高まる中、国内外で石炭火力を推進する日本が名指しで非難されています。

 9日、海外での日本の石炭投資を批判する行動が、会場前で行われました。

 インドネシアやフィリピンなどの参加者が「日本は途上国の石炭火力発電所への投資をやめろ」と訴えました。温暖化対策に逆行し、発電所建設の強行による、住民への人権侵害にも加担していると厳しく指摘します。

 フィリピンのゲイリー・アランセスさんは、「世界の石炭関連開発の80%はアジアで行われています」と強調。「日本の姿勢は、アジアをもう一度破壊しているようなものです。東南アジアの人々の命を、今度は間接的な形で奪っている」と訴えました。

会議の「裏テーマ」

 日本は同日、温暖化対策に消極的な国に与えられる「化石賞」も受賞。今月6日、途上国での石炭火力・原子力発電所の建設推進をうたう覚えがきを米国と交わしたことが理由でした。

 NGO関係者は「脱石炭は、今回のCOPの裏テーマです」といいます。「このまま石炭火力を使い続ければ、世界の気温上昇を2度未満に抑えるという、パリ協定の目標が達成できないからです」

 交渉議題にこそなっていませんが、会場ではほぼ毎日、脱石炭のシンポジウムが開かれており、大きな注目点となっています。

 国内外で石炭火力を推進する日本。海外の石炭関連事業に突出した投資をしており、支援額では主要7カ国(G7)でトップです。国内でも42基の火力発電所が建設計画中です。

 日本政府は、日本の石炭火力技術は高効率でクリーンだと主張しています。気候ネットワークの伊与田昌慶研究員は、「どんな高効率の石炭火力でも、使い続ければパリ協定目標は達成できないと、科学者がすでに報告しています」といいます。

 「日本国内では設置されている汚染除去装置が、支援した途上国の発電所にはついていないなど、クリーンとの主張も疑問です」

脱石炭にかじ切れ

 10日、脱石炭を掲げるNGOが米国パビリオンで講演。草の根NGOの活動によって、米国内の半分以上の石炭火力発電所が運転を止めたと報告しました。NGOの代表が「米国内で起きている動きは、ひとりの大統領が覆せるようなものではありません」と述べると、会場から拍手が起こりました。

 FoE Japanの深草亜悠美さんは、「米の市民社会も含め、先進国は脱石炭に動いていて、米政権が孤立している状況。そこに日本がついていってしまうのは、とても残念です」と語ります。

 「地球温暖化に歴史的責任のある先進国として、日本も脱石炭にかじを切るべきです」



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by daisukepro | 2017-11-13 09:06 | 地球温暖化

クビになった法制局長官と日本国憲法(東京新聞社説) 


文化で戦争をほろぼす)金森徳次郎を知っていますか――クビになった法制局長官と日本国憲法(東京新聞社説) 

2013/11/05

東京新聞の社説。いろいろ教えられます。

「週のはじめに考える 『文一道』の精神に立つ」
  (東京新聞 2013年11月3日)

 きょう「文化の日」は、六十七年前に日本国憲法が公布された日です。憲法改正などが公然と論議される現代こそ、その原点をみつめたいと思います。
 気に入らないから、内閣法制局長官の首をすげ替える-。安倍晋三政権のみならず、実は戦前にも、同じような荒っぽい出来事がありました。
 有名な美濃部達吉博士の天皇機関説事件のときでした。一九三五年のことです。天皇は法人たる国家の元首の地位にあるという憲法学説に対し、議員らが猛然と攻撃を始めました。「天皇は統治権の主体であり、国体に反する」などと非難を繰り返したのです。

◆首になった法制局長官
 法制局長官であった金森徳次郎は議会で「学問のことは政治の舞台で論じないのがよい」という趣旨の答弁をしました。自らの著書にも機関説的な記述がありました。そのため、つるし上げを受け、金森は三六年に退官に追い込まれてしまったのです。
 名古屋市出身で、旧制愛知一中、一高、東京帝大卒というエリート官僚でしたが、それからは一切の公職に就けませんでした。“晴読雨読”の生活です。野草を育てたり、高浜虚子の会で俳句をつくったりもしました。それでも警察官や憲兵が視察に来ます。
 戦争では家を焼かれ、東京・世田谷の小屋で、大勢の家族が雑居しました。でも、終戦により、身辺はがらりと変わります。まず、金森は貴族院議員に勅任されます。退職した法制局長官の慣例に従ったようです。
 四六年には第一次吉田茂内閣で、国務大臣となりました。役目は新憲法制定です。「この憲法には一つも欠点がない」というほど、ほれ込みました。議会での答弁も、ほぼ一人で行いました。その数や、百日あまりで、千数百回…。一回で一時間半も語り続けたことがあります。」

◆文化で戦争を滅ぼす
 新憲法公布の朝です。破れガラスの表戸を開けると、見知らぬ老人が立っていました。ビール一本とスルメ一枚を差し出し、涙声で喜びを述べました。物資不足の時代のことです。そして、「引き揚げ者の一人」とだけ告げて、老人は立ち去りました。金森は「生まれてから初めての興奮」を覚えたそうです。
 その朝の中部日本新聞(中日新聞)で、金森は「国民全体が国の政治の舵(かじ)をとるという精神が一貫して流れている」と憲法観を語っています。さらに平和主義について「戦争を放棄した世界最初の憲法、そのこと自体非常にレベルの高い文化性を物語るものだ」とも述べました。
 四七年には「戦争は文化を滅ぼすものであって、(中略)文化をして戦争を滅ぼさしめるべきが至当である」という一文を発表しています。でも、日本一国が戦争放棄をしても、意味をなさないという反論が考えられます。金森は、次のように論じました。
 <正しいことを行うのに、ひとより先に着手すれば損をするという考え方をもつならば、永久にその正しいことは実現されない>
 <歴史の書物を読んでみれば、結局、武力で国を大成したものはない(中略)およそ武力の上にまた更(さら)に強い武力が現れないということを誰が保証しよう>
 文武両道といいますが、日本は「文一道」が好ましいと、金森は主張します。戦争放棄を「じつに美しい企て」とも考えました。

 今の政治状況を翻ってみます。「知る権利」を脅かす特定秘密保護法案や国家安全保障会議設置法案が提出されています。その先には集団的自衛権の行使容認が見えます。安倍政権が憲法改正を公約していることは忘れてなりません。
 戦前は「軍事」、現在は「安全保障」の言葉が、かつかつと靴音を響かせ、威張っています。

金森の憲法論集を編んだ鈴木正名古屋経済大学名誉教授(85)は「今でいうリベラルで、自制心を持っていた人です」と評します。「明治時代には自由民権運動がありました。金森は大正デモクラシーの空気も吸っていました。だから、新憲法は民主主義的傾向の復活でもあり、侵略を受けたアジア諸国をも寛容にさせたのです」
 安倍政権は自制心というブレーキを持っているでしょうか。隣国との融和に熱心でしょうか。大事なのは、政治の舵を握るのは、国民であることです。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013110302000121.html


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by daisukepro | 2017-11-13 00:13 | 憲法