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腹部大動脈瘤破裂のため東京都内で死去した。88歳。

テレビドラマ「夢千代日記」などで知られる脚本家で作家の早坂暁(はやさか・あきら、本名富田祥資=とみた・よしすけ)氏が16日午後2時、腹部大動脈瘤破裂のため東京都内で死去した。88歳。松山市出身。

 関係者によると、外出先で体調を崩し、運ばれた病院で死去したという。

 「七人の刑事」「天下御免」など数多くのテレビドラマを手掛けた。生と死をテーマにした作品が多く、吉永小百合さん主演の「夢千代日記」シリーズや、生まれ育った商家を舞台にした「花へんろ」シリーズが人気を集めた。

 映画「天国の駅」などの脚本を担当。自伝的小説「ダウンタウン・ヒーローズ」が映画化された。

(共同)
 テレビ朝日の日本剣客伝、宮本武蔵四部作(降籏組)、三國連太郎が武蔵、永山一夫が小次郎、吉村実子がお通という配役だから、当時としてはかなり異色であった。三国さんは武蔵を労働者の一人として演じると説明するのだが、なんでそなことを言うのかさっぱり理解できなかった。俺は助監督の一人で予告編などを撮らされていた。早坂さんは脚本の出来上がりがおくれた。なのでおそさかさんと呼ばれていた。がこの番組に関しては問題なかった。三国さんは鬼籍に入り、永山さんは北朝鮮に帰国したまま消息を絶った。

 死去した早坂暁さん

 死去した早坂暁さん

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by daisukepro | 2017-12-17 15:31 | サヨナラ

原寿雄さんの死を悼みながら 17/12/9

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

原寿雄さんの死を悼みながら 17/12/9

明日へのうたより転載

 元共同通信の原寿雄さんが92歳で亡くなった。『赤旗』が7日付の社会面(死亡欄)で報じ、9日付の「潮流」で追悼の言葉を贈っている。「亡くなるまで、ジャーナリズムのあり方や表現の自由の大切さを語っていた原さん。その熱いメッセージから学んだ記者は多い。ジャーナリストは自由の消費者ではない。自由の生産者、構築者たれ」。原さんが労働運動家としても優れていたのはあまり知られていない。

 おれは茨城の高校を出て、1956年に毎日新聞東京本社印刷局に入社した。1年の試用期間を過ぎて組合員になるとすぐ職場新聞を発行。それが認められて58年に青年部書記、59年には新聞労連東京地連青婦協議長に選出された。その時新聞労連副委員長・東京地連委員長をしていたのが原寿雄さんだ。

 60年安保最盛期には新聞労連も連日500~1000人の動員をしたが、始めの頃はちょぼちょぼだった。原委員長の後に労連旗を持ったおれしかいないなんてこともあった。「なんだブル新しっかりしろ」などと野次られたりした。それでも原さんは毅然として前を向いて行進していた。

 60年は安保とともに三池闘争もたたかわれた。原さんは総評の常駐オルグとして現地闘争本部に派遣された。総評は5月27日から30日まで全国からオルグ団を結集、東京地連も8人を現地に送り込んだ。おれはその一員だったが、ホッパー前でデモを指揮する原委員長を誇らしく思ったものだ。

 安保も三池もたたかいが終結した61年7月、新聞労連東京地連定期総会でおれは書記長になった。委員長は4期目の原さん。当時新聞労連書記局は京橋にあった。非専従書記長のおれは有楽町駅前の毎日新聞社から歩いて通った。原さんは労連副委員長の仕事が主なので地連関係はおれに任された形だった。

 役選の難航のため開催の遅れた62年11月の労連大会で原さんは専従を降り共同通信の職場に戻った。同時に東京地連委員長も退任したのだが、最後の議案書づくりでアクシデントがあった。原さんとおれで分担してつくった議案書の原稿を印刷屋が紛失してしまったというのだ。

 さあ大変。今日中に原稿を書かないと定期総会に間に合わない。原さんは原稿用紙を広げて資料も見ずに書き出した。その早いこと。最初のより幾分分量は減ったが一応形を成して印刷屋に渡した。おれにとっては懐かしい思い出である。――数年新聞労連主催で前原さんの講演会があって、終わってから挨拶したらちゃんとおれを覚えていてくれた。嬉しかった。原さんのご冥福をお祈りします。

 

 


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by daisukepro | 2017-12-12 12:06 | サヨナラ

サヨナラ  「バラバラマンこと斉藤晴彦 」

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サヨナラ 斉藤晴彦

読売新聞の訃報で斉藤晴彦さんの死去を知った。
死を悼み謹んで哀悼の意を表します。

30代の頃、新宿、一緒に夜の街を徘徊したものだ。
カヌー、テアトロ、ユニコン、カプリコンも今はない。
当時、テレビ東京は東京12チャンネルと呼ばれていた。番組名はプレーガール、題名は「女殺し昭和元禄」(1968年)でテロリスト青年の役でゲスト出演していただいたのが最初かもしれない。ゲスト主演は伴淳三郎、殺人教室の校長で若いテロリストを育成している。  そこの卒業生の一人が斉藤さんの役どころである。
 
 新宿駅西口に地上から地下広場に螺旋状に通じる自動車用のロータリーが完成したばかり、珍しかった。地下広場にはホームレスが棲みつき、夕方にはどこからともなく青年たちが集まってきてベトナム反戦フォークを合唱した。野次馬と一緒になってたちまち地下広場はいっぱいになった。
 京王デパート横に南口に通じる路地があり、一人の青年が「グットバイ」とタイルばりの地面に落書きをするところからトップシーンが始まる。コウモリ傘を肩にロータリーを逆行して地下広場へ鼻で歌いながら降りて行く。
 青年は電話ボックスの穴から傘を突き刺し、殺す。誰でもよかった。穴から引き抜くと傘はズバッと開いた。

 コウモリ傘のイメージはフジテレビ、朝9時番組の元祖「ロボット8ちゃん」のバラバラマンのキャラクターに引き継いだ。ロボットが町中に住み、人間か、ロボットかどうか区別できないという、近未来の設定なので、悪いロボットから人間を守るためにロボットを規制する法律も出来るだろう。そうすると法律違反をするロボとも出てくる。ロボット管理局ができる。そこの役人の役を斉藤さんのために考えた。斉藤ロボット取締官はことのほかロボット8ちゃんがお嫌い。追いかけ回しバラバラにして鉄くずにしたくてたまらない。それを8ちゃんを愛するこども達が防衛する、日本的トムとジェリー
、これでこの企画のコンセプトはいけると思った。
ところがである、作品ができあがると内部から批判がわき起こった。監督である私を排除して、密室協議が行われた。

 報告によると番組の神聖な商品である8ちゃんをバラバラにして壊すなどという発想はけしからんというクレームだったようだ。監督を排除することで一件落着、幸いにもバラバラマンは救われた。エンディングに使用された天才詩人浦沢義雄、天才作曲家小林亜星のマカロニウエスタン風、名曲は生き残った。
しかし、こどもたちがバラバラマンを罠にかけて岸壁から海に突き落とすシーンが追加撮影されていたことで監督生命が首の皮一枚で救われたという人がいたので、非難の矛先は間違えなく私であった。

 そのシーンを撮影する日、バラバラマンの衣装に身を固めた斉藤さんが現場にやってきた。「斉藤さん、海に飛びこんでもらいますがいいですか」ときりだした。
斉藤さんは話を事前に聞いていたらしく、一瞬ためらったがそういわれるとやるしかないですとこたえたので残酷にも撮影は直ちに開始された。
 なので、追悼文だというのに不適当な話を長々として、何が言いたいかというと私の監督生命を斉藤泰彦という役者が救ってくれたことである。
 番組が放送されると前の番組の視聴率1、4%から2、4%に倍増、その後、視聴率は順調に伸びた。リサーチによればバラバラマンが子供らの一番人気であった。

 私はこの1話限りでロボット8ちゃんの監督をやることはなかった。このシリーズが少年探偵もの、美少女シリーズになってから企画を7年間担当した。斉藤さんはメジャーの役者となり、黒テントの演劇活動を支えてきた。視聴者とお客様は私たちの神様です。
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by daisukepro | 2014-06-29 19:41 | サヨナラ

サヨナラ 瀬尾脩

 弔報ファックスが入った。瀬尾カメラマンの葬儀日程の通知である。つくば市にあるメモリアルホールで今晩、通夜が行われる。いつ亡くなられたか記載はない。火葬である。瀬尾夫人の葬儀は土葬であった。 喪主は瀬尾宗臣とある。長男の息子さんであろう。『コバさん,せがれがオートバイを買ってくれと言うんだ。仕方ないので「よし分かった棺桶もついでに買ってやる。それでもいいかって言ってやった」。
あぐらをかいて、酒をくらう様は豪快であった。突き出た腹は布袋のようだ。押し入れから小型の35ミリカメラを腹にのせるように抱え出て来たりするカメラマンであった。
 宇宙刑事パイロット版の制作を一緒にやった。まだCG技術はなく、合成は東通のECG、現像はアメリカに送った。テレビ番組がテレビ映画と呼んでいた時代、撮影はビデオではなくフィルムが使われた。 打合せをするわけでもなく最初のポジションが決まると、次のポジションに常にカメラがあった。被写体との空間を意識しながら演出することができる、今思い返すと幸せな時間であった。
 やがて、フィルムからテープに、映画は番組となり、映画監督は番組ディレクターになり,シナリオは契約書になった。
83歳、瀬尾カメラマンもこの世を去り、私も年老いた。長い労働争議があったが、職場を守り抜いた。よき時間をともに働いたことを誇りに思う。サヨナラ、偉大なカメラマン、瀬尾大人 謹んで哀悼の意を表します。(通知を送ってくれた人、ありがとう。葬儀に出られず残念無念)
2014年5月18日
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by daisukepro | 2014-05-18 16:49 | サヨナラ

サヨナラ 木村京太郎

さよなら京太郎

去る、9月13日、読売広告のプロデューサー木村京太郎さんのお別れ会が赤坂のホテルで行われ、約250名が参列した。行年58歳の若さだった。既に読売広告社は退職していたが東映アニメとピエロ、読売広告の3社合同で開かれた。
式次第は読経の代わりにジャズ生演奏、献花、会食、ビデオ上映、特に親しかった友人たちの言葉、親族のあいさつでお別れ会は幕を下ろし、参列者は三々五々赤坂の街に消えて行った。

 c0013092_1743243.jpg私はフジテレビの日曜朝9時の児童番組で7年間、東映企画者として京太郎さんと一緒に仕事をした。いわゆる、アニメではない実写の子ども番組である。広告代理店の仕事はテレビ局、製作会社、スポンサーの間で共同作業が円滑にすすめられるように気配りをしなければならず、それだけでも細かい神経と図太い精神の持ち合わせていなければ勤まらない。それプラス、企画意図を実現するための発想やキャラクターイメージを具体化しなければならない。京太郎さんはこれらの仕事を軽やかにこなして行くのである。それに、今風に言えばイケメンだったので、女性が放っておかなかった。
当時、映画界は児童を対象とした番組を「ジャリ番(組)」と業界用語で呼んでいた。その番組に携わるスタッフは劇場用映画のスタッフから差別扱いされていた。そもそも、映画界はテレビそのものを電気紙芝居呼ばわりして、映画5社協定を結び、自社俳優のテレビ出演を規制していた。その時代の名残である。「ジャリ番」はローバジェットで労働条件が悪いだけでなく、30分単位で制作されるため30分もの、60分のテレビ番組、これを一時間もの、「大人番」と呼びそれからもさらに差別されていた。それだけではない。この種類の番組には常識のようなもの、大人たちの目線で見て、子どもはこうあらねばならないという保守的なルールが存在していたのである。例えば、ヒローはタバコをすわない、立ち小便はしないなどである。

幸いなことに各社から集められた企画者集団は企業の立場を超えて、すぐに仲良くなった。神々の思し召しなのか、偶然なのかは分からない。もっとも、これは私ひとりの勝手な思い過ごしかもしれないが、類は友を呼ぶということわざを思い出す。わたしたちには共通の敵がいた。私たちは会ってから三日も経たずに、このコンサバティブな掟を打破して何か分からないが新しいことをやろう、それを今時の子ども達は待っているんだという勝手な思いを共有することになった。けれども、この共有する価値観に綱領や規約のようなものはなく、話し合う中で自然と同じ方向を向くという具合に仕事をした。なので、これを規制する側に取っては難しいことだったのか、視聴率が順調に伸びるに従って映画企業の管理職から放任される結果となった。しかし、これは言うは易く、幾重にも張り巡らされた関門を通過しなければ実現しないのだ。お庭番のような方も存在していたようであった。あるゴールデンタイムの番組では現場でプロデューサーを批判しようものなら、翌日はそのスタッフが呼び出されるということが続いたので、ガセネタを流して犯人をつきとめたりしたという話が伝わってきたりした。笑えない職場だったのである。この奇妙な職場が映画会社に存在した経緯は別の機会にするが、いずれは書くことになるだろう。

当時、情熱を燃やしてジャリ番組の制作に取り組んだ仲間は、あるものは社長になり、会長になり、またあるものは常務取締役になり、さらに顧問などになった。サラリーマンとしては出世コースを歩んできた人ばかりである。
テレビ局の取締役は京太郎さんが提出した企画書とメモ書きを持参してくれた。驚くなかれ、それは数十年前、この番組の最初の企画書であった。お別れ会では回顧ビデオが上映されたが、そこで現テレビ局の常務取締役は京太郎さんと当時の番組に登場して仲良くジュエットする場面が映し出された。あいさつで「あのころの現場は活気があった。いまは情熱があまり感じられない。現場に活気と情熱を取り戻したい」と話した。番組制作の要は脚本であるが、浦沢義雄という天才ライターは忘れられない。詩人だが、脚本の構成力は抜群であった。いまでも活躍していると思う。彼の発案だと思うが「人生は2度ない3度ある」というキャッチフレーズがあった。京太郎さんもこの言葉を好んでいたという。忘れがたい京太郎さん自身の言葉としては「時代から感性がずれたら、いつでもこの仕事を辞める」「キャラクターは死なない」である。

喪主の久美子さんから参加者には音楽CDがプレゼントされた。「チェットベーカー」の物悲しいトランペットが流れてきた。なかでも、彼は「マイファニーバレンタイン」を愛していたという。私たちの思い出となった職場は大泉の東映東京撮影所の外れにあったが、私たちが退職後、建物は解体され、いまでは映画館になっている。
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by daisukepro | 2010-11-18 17:05 | サヨナラ

オールドブラックジョー(サヨナラ!カメラマン堀美臣)

オールドブラックジョー(サヨナラ!カメラマン堀美臣)


8月9日、堀美臣カメラマンのお別れ会に出席した。c0013092_0111570.jpg渋谷は雨だった。会場は東急本店の裏にある小さな映画館であった。表階段を上がるとレストランがあり、そこで待たされた。20人はいたろうか、知った顔もちらほら見えた。しばらくして奥の部屋に案内された。映画館というより映写設備のある部屋である。にわか造りの椅子席を含めて約50席、満席になった。スクリーンには堀カメラマンのスナッップ写真が映し出されていた。その前で生前ゆかりの人々が次々と立った。
新体連、労働組合、仕事、そして交遊、自由人として生きた在りし日の姿が断片的に語られた。おぼろげに堀カメラマンの全体像が浮かび上がってきた。誰かが、「堀さんといえばこれとこれですね」と手振りを見せた。左手の指先でおちょこの形を、右手でタバコを挟む仕草をこしらえて2本指を口まで上げた。
お別れのスピーチが終わった。場内が暗転してCRTプロジェクターから映像が映し出された。タイトルは「記憶と記録の間で」、それは奇妙な短編映画だった。撮影スタッフらしき一行が会津若松を訪れるところから始まる。男がフレームインしてくる。無造作にフレームの手前から、しかも後ろ姿だ。振り向くとまぎれもなく掘カメラマンその人だ。小さなスーパーの店先のベンチに腰を下ろした。すっかりやせ細って痛々しい。メガネをかけ、コンチネンタル風の髭には白髪がめだった。
「さあ、いこか」
堀カメラマンは命令口調で言葉を発して立ち上がった。ロケ場所の案内をたのまれたのか、いかにも地元風の男性が付き添っていた。ジャガイモのしなびたような面立ちに濃いまつげ、その顔に見覚えがある。けれど、誰だったか思い出せない。
堀カメラマンが蛍を撮影したいというので、ジャガイモ男が案内した。その場所に沼はなく、蛍はいない。道路になっていた。結局、「望みの蛍が撮れないので、星空を撮った」というスーパーが入ると満天の星空が撮影されていた。星空を撮るのは結構難しい。場所や天気もあるし、技術も必要だ。このカメラマンかなり拘っている。驚いたことに生きた源氏蛍を撮影していた。昆虫図鑑のようだ。この記録映画に必要なカットとは思えないが、これも撮影に成功するためには特別な機材とカメラ技術が求められるのだ。何よりも時間がかかる。それで合成や写真で処理するのが普通だ。まだある、雨蛙が産卵?する瞬間、軒下で嘴を開いて餌をねだる子ツバメ。画面の外から堀カメラマンの声が聞こえる。「強いよ、強いよ。そうそれでいい」ツバメの巣に光があたったり、外れたりした。照明機材のレフを使っているのだろう。カメラマンが「それでいい」というとツバメの巣はコントラストがとれてバランスよく映るのだ。画面に映し出されているのはツバメの巣だけだが、声はフレームの外から聞こえてくる。「よーし、とれた、カット!」このやり取りを聞いているうちに、急に記憶がよみがえった。もしかするとこのレフを操作しているのは昔、撮影所にいた照明部のNちゃんではないか。
つぎのシーンでそのジャガイモ男はインタビューをうけていた。鈴木清順の「けんかエレジー」について「あれは会津文化そのもの」などと映画談義が果てしない。まぎれもなくNだった。30年以上も会っていなかったが記憶というものは不思議なものだ。
何故か中学生の頃、訳もわからずに読んだプルーストの長編小説「失われた時を求めて」の水中花の一節を思い出し、プルースト風の気分になった。
映画には会津弁で語るひょっとこ伝説や雪の農村を徘徊するひょっとこのイメージ映像が出てくるがいろいろな記憶に気を取られて消化不良をおこした。ひょっとこはどこか麻生に似てるなと思ったりした。c0013092_0114080.jpg「儲からない映画でも、映画人は映画を撮りたいものですかね」と短編映画が上映される前にプロデューサーが挨拶していたが、資金繰りに苦労している人らしい。
堀カメラマンには長年培った技術があった。それを発揮する機会がなかった。たとえワンカットの情景であっても堀カメラマンの気持ちが伝わってくる気がする。どんなに映画が撮りたかっただろうか。思う存分大作のカメラを回して欲しかった。
映画が終わるとスクリーンに静止画像が浮かんだ。病床の堀カメラマンだ。ベットで上半身をおこし何か書いているところだ。メッセージが読み上げられた。「僕は先に行っているが、急がなくていい。いつでも待っているから・・・・・・・・」
池袋で途中下車した。雨はいつの間にか上がり、白いビニール傘を杖にして家路に着いた。先月の終わりにシナリオライター「パウロ高久進」の葬儀に出たばかりだ。教会がある百合ケ丘の駅に降りると急に土砂降りの雨になった。仕方なく駅の売店で買ったものだ。
うろ覚えのオールドブラックジョーを鼻歌で歌いながら夜道を急いだ。

「 I'm coming, I'm coming, for my head is bending low,
I hear those gentle voices calling "Old Black Joe"」

「きっこのブログ」にひょっとこのポスターがのっていた。よく出来ているので無断で転載させてもらう。町中に張り出したいくらいだ。
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by daisukepro | 2009-08-14 00:14 | サヨナラ

サヨナラ、丹波哲郎

サヨナラ、丹波哲郎

丹波哲郎の通夜、無宗教者の葬儀なので読経の声や線香の匂いはない。青山斎場内の菊の匂いにむせ返る。祭壇は大霊界の風景の中に棺と写真がアレンジされている。3分間黙祷を捧げ、突如、Gメン75のテーマソングが流れた。
別れの挨拶は山田洋次、瀬川昌治監督、どこかの社長、女優の坂口良子、そして童謡月の砂漠をBG曲に献花が始まる。
c0013092_23114397.jpg帰路の地下鉄の中で会葬お礼の封書を何気なく開くと手招きする丹波さんのサイン入りのポートレートが入っていた。「一足先に旅立つよ。みんなむこうで待ってるぞ。じゃあな!」
勿論、むこうとは天国や地獄ではなく大霊界、丹波さん云うところの反物質の世界である。悲しみはなく、まだ生きているような気がする。
「みんないなくなっちゃってーー」薄暗い回廊の片隅で丹波さんの麻雀仲間が消え入るように立っていた。握手の温もりから悲しみがしみてくる。
サヨナラ、丹波哲郎。手招きはやめてくれーーーーーー!
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by daisukepro | 2006-09-29 23:20 | サヨナラ

さよなら鈴木尚之

さよなら鈴木尚之

昨年11月26日深夜、シナリオ作家鈴木尚之は極楽へ旅立った。密葬だったので友人が出棺後に知らせてくれた。お別れの会は昨日、平川町の都市センターホテルで開かれた。映画関係者200人ほどでささやかに行われた。c0013092_1591053.jpg
室田日出夫、深作欣二に次ぐ先輩友人の訃報であった。伴侶の朝さんと家族は桜上水で「木々」という名の素敵な日本料理店を営んでいる。田坂具隆監督の旧宅を改築したお店の造りは和風で,多目的にデザインされ、居心地がいい。それぞれのグループが会合に利用した。
田坂監督に心酔している人は多い。酒を飲むほどに田坂監督の発言があれこれ出てくる。「君はこの会社でやがて監督をやるのだろう。だったら、台本に線を引いてコンテを勉強するより,ある日主役がこなくなったらどうするか考えておいた方がいいと田坂さんに云われた」と降旗監督がヒッヒヒと笑った。
「若いうちに最高のものを見ておくことが大事だ」と助監督たちを吉兆やお茶屋に連れて行った。新宿の路地に「五郎」と云う小さな日本料理屋があり、料理は包丁さばきを売り物の店で半世紀昔の値段で一人一万円はしたが、田坂さんは惜しげもなく払った。料亭「木々」の造作は尚之さんや朝さんの趣味であろうが、田坂さんの考え方が反映しているのではないかと思う。
尚之さんとは毎晩のように新宿を飲み歩き、私はもっぱらごちそうになった。

尚之さんと朝さんが縁あって結ばれることになり、結婚式のお手伝いをやらされた。
シナリオ会館の下で松葉屋が料亭をだしていた関係で式典は吉原松葉屋の演舞場で行われ、招待客を桟敷席に案内した。舞台で作家の水上勉が豆の話をした。こんな粋な結婚式を未だ見たことがない。想い出は山ほどあるが、最後にこれはいずれ書くこともあるが、灘千造は忘れがたい。千ちゃんは内田吐夢監督の「酔いどれ酒場」のシナリオライターとして知られていた。私たちはよく鈴木家で花札をやり、「ここは賭場ではない.いい加減にしてくれ」と叱られた。
遺影は疑り深い眼差をした鈴木尚之の個性がよく現れている。まだ、この世にいなくなったとは思えない。
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by daisukepro | 2006-01-10 15:10 | サヨナラ

さよならタカムラ・クラタロー(高村倉太郎)

さよならタカムラ・クラタロー(高村倉太郎)

11月23日午後1時、告別式は亀戸の東覚寺で行われた。風のないおだやかな小春日和だった。
出版記念会の知らせが届いたのは一ヶ月ほど前、風のたよりで入院したと耳にしていたが、訃報を本郷にある事務所で聞いた。c0013092_014289.jpg日活の友人から川島雄三のDVDを買い求め「幕末太陽伝」を見たばかりだった。勿論、カメラマンはクラさん、新文芸座で48人の監督と撮った男という連続上映会が11月26日から開催されることになっていた。式場の祭壇には刷り上がった自叙伝が置かれてあった。140本の作品歴を見ると日活映画そのものの感がある。極楽に行ったクラさんの追悼映画会、出版記念会は偲ぶ会になるだろう。映画人九条の会には真っ先にかけつけて、よびかけ人になった。クラさんは兵役体験があり、反戦平和がクラさんの優しさの源であった。私は川島作品の中で「州崎パラダイス・赤信号」がお気に入りだったので、何かの会合の席でクラさんにそのように話すとにっこり笑った。子供のような笑顔が印象に残っている。そのときクラさんが「州崎パラダイス」のカメラマンであったことを初めて知った。
心からの哀悼の意を捧げたい。たしか熱海か伊東のホテルで会議があった帰りに、海岸沿いにある洒落たレストランに案内されたことがある。出されたフランスパンの歯触りをほめると、クラさんは「パンは冷凍しておいて焼くとできたてのようになる」と教えてくれた。以後冷蔵庫から食パンを取り出すたびにクラさんを思い出すことになった。死後も変わらないだろう。レストランはクラさんの身内の経営だった。
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by daisukepro | 2005-11-24 00:15 | サヨナラ

アーサーミラーの死

「セールスマンの死」の劇作家のアーサー・ミラー氏が10日夜、米コネチカット州の自宅で死去した。89歳だった。 c0013092_20224711.jpg
 「セールスマンの死」(1949年)は無名塾、民芸などでくりかえし上演された。「若きもの.名もなきもの、ただひたすらに駆けのぼる、ここに青春ありき、人よんで無名坂」、仲代達矢(無名塾)が演じたセールスマン・ウイリーがよかった。
オレンジの皮をむくように人の頭の中は覗けないが、アーサーミラーはセールスマンの頭の中にアメリカ社会の病根、資本主義社会そのものがあることを見つけた。(You can't eat the orange and throw the peel away -- a man is not piece of fruit.)
そうとは知らず、私はいたずらに歳月を過ごしてきた。だが、私の頭のなかにもウイリーが住んでいることに思いいたす日々。「セールスマンの死」は悲劇の古典になった。ウイリーは裏庭に種をまいたが、私は梅の苗木を植えた。偉大な劇作家アーサーミラーにーーーそして、セールスマン・ウイリーにーーーー
53年「るつぼ」では、魔女狩りを素材にマッカーシズムへの警鐘を鳴らした。そのため、マッカーシズム(共産主義排斥)の標的にされ、非米活動委員会から召喚されたが、56年、マリリン・モンローと結婚。モンローは21世紀FOXから「転向させないと契約を解除する」といわれた.
しかし、モンローは屈しなかった。ミラーは「自分を裏切ることはできない」と友人の密告をいっさい拒否したため議会侮辱罪に問われた。58年勝利、そして5年後、離婚。
アーサーミラーはやさしいまなざしをしているーーーーー



 
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by daisukepro | 2005-02-13 08:04 | サヨナラ