追悼 佐伯孚治監督 小林義明
いつか突然やってくる。その日は必ずやってくる。騒がしく人々に送られるか、静かに人知れず消えるか。
訃報は監督協会から告げられた。佐伯監督は今年(2018年)1月13日、浴室で倒れ、葬儀は近親者のみで済ませたそうだ。協会からは弔慰金が送られるという。
僕は覚えている。友と過ごした日々を忘れない。
数年前、簡易裁判所の表で別れたのが最後となった。長年不整脈を抱えていたが元気な様子でタクシーを呼び止め、「障害者用の券が利用できるんだ」と乗り込んだ。1年続いた事案もまた静かに決着がつき、支えてくれた労働組合役員と二人で見送った。腰が少し曲がりぎみなのが寂しかった。
僕たちは毎年正月に鈴木邸で宴席を開いた。同席した顔ぶれの灘千造、深作欣二、大原清秀、堀長文と鈴木尚之、そして佐伯孚治──。次々と去って行く。「佐伯さんは無駄に長生きする感じだな」という仲間がいたが、無駄を除けばまさに的中した。行年91歳であった。
処女作は「どろ犬」である。結城昌治の「夜の終る時」を原作にした悪徳警官もの。チーフ助監督は降旗康男、僕は駆け出しの助監督だった。勝目貴久(脚本家)の実家が北鎌倉駅前にあり、そこの茶室でシナリオの部分修正を進めた。ケネディ暗殺の情報が入り、暗澹たる気分になった記憶がある。ともかく「どろ犬」はフランス映画の香りがする名作だ。今、東映のどこに眠っているのか。心残りでならない。。
僕が東映東京撮影所で働き始めた頃、田坂具隆監督は「はだかっ子」の撮影に取りかかっていた。佐伯さんがチーフ助監督であった。「日活には本物のシティーボーイがいるが、ここは偽物が多い。どちらかと言えば学校の先生風だな」と、田坂監督が佐伯さんを見て笑った。言われてみると風貌はまさにインテリ、右翼に嫌われそうな顔立ちをしている。撮影所内には裕次郎風、宍戸錠風の俳優が闊歩していた。
内田吐夢、田坂具隆、今井正、山本薩夫、家城巳代治、村山新治、関川秀夫などの演出陣。他では絢爛豪華堂々と大衆娯楽映画を、週刊誌を販売するように量産していた。
60年代後半に入ると東映では経営危機による人員整理が始まり、常套手段として、まず組合に分裂攻撃、機構改革、そして分社化。そこへ選別した労働者を強制配転して隔離する。安売りのスーパーマーケットのように、ありとあらゆる組織攻撃を仕掛けてきたのである。
佐伯監督は風雪に耐え、職場を守り抜く立場は揺らぐことはなかった。排除の論理が職場を風のように駆け抜けた。約2年間、就労排除の攻撃を喰らった時、僕らは二人並んでパチンコ台の前に座り、時間を潰したこともあった。佐伯さんはいつも僕のそばに寄り添ってくれた、かけがえのない人だった。
佐伯世代は戦争が背後霊のように張り付いていた。あの戦争の正体を見極めて後世に残して行く責任がある。佐伯監督は東大時代、「わだつみの会」に飛び込み、活動していた。監督の映画への原点はこの辺りではないかと想像している。
いやな感じの今の世の中、耳をすませば軍靴の足音が聞こえる。「佐伯監督、安らかにお眠りください」とはとても言えない。
(日本映画監督協会の会報に寄稿した追悼文から)