人気ブログランキング | 話題のタグを見る

続「豊島ヶ丘の護国寺」

お手ごろ観光協会のおすすめ、護国寺
 交通費、お茶代だけで楽しめる、貧乏旅行社の観光案内です。
 
 不老門をくぐり抜け、護国寺本堂に向かう。左は茶室が女坂にそって立ち並び、右に大師堂、そこから一段上がると右に大仏,左に聳えている多宝塔の後ろに月光殿が見える。大仏の後ろには鐘楼がある。本堂右側には石碑が立ち並びその後ろには権力者の墓地が並んでいる。最も大きいのが、大隈重信の墓で、大隈忌のころは早稲田大学の学生たちが幟などを持ち込んで参拝している。その並びに公爵山県家累代墓がある。いずれの墓も入り口の門に施錠がしてあり、立ち入ることが出来ない。
 本堂の西側には薬師堂、その横に象供養碑がある。象牙工芸職人組合が建てたものである。薬師堂の裏には庚申塔、その奥の奥に踏み入ると日清戦争で戦病死した兵士を記念して忠魂塚記念碑がひっそりと木陰に建っている。

 護国寺のすごいところは時の権力者の墓だけでなく、大日本帝国陸軍将兵の墓が密集していることだ。昭和は満州から始まると云われているが、旅順口をめぐる日露戦争で戦死した将兵の墓が北西部の奥に囲われてある。
 その昔、いまの青柳小学校がある場所にあったものを現在の場所に移転したと云われている。隣接するように講談社、野間一族の墓もある。戦前の社名は大日本講談社であった。
ここの墓地は位が支配している。現代青年に爵位について訊ねても、公爵、伯爵どっちが偉いかわかる人はすくない。新憲法施行とともに爵位制度は廃止された。主権在民の思想にはなじまない制度だからである。しかし、ここの世界では立派に存在している。死してなお身分ありきだ。
 百科事典を覗くと「爵位(しゃくい)とは君主制国家において貴族や国家功労者に対して授与する階級別の栄誉称号のことである。世襲により継承される」、日本での爵位制度は「明治17年(1884年)7月7日、公卿・諸侯と国家功労者に公・侯・伯・子・男の五爵を授けられたことに始まる。昭和22年(1947年)5月3日、日本国憲法施行に伴い、華族廃止と共に廃止となる」
続「豊島ヶ丘の護国寺」_c0013092_1135032.jpg
続「豊島ヶ丘の護国寺」_c0013092_1143167.jpg
 改めて山県有朋の墓碑を見てみよう。公爵は五爵のトップに位する。
知っての通り、山県有朋は山口県出身で中間の子である。華族ではない。だとすると国家、つまり山県有朋は天皇に特別な功労があった。よって、天皇が最上位の爵位を山県に授けたことになる。封建時代に身分の低い貧しい家に生まれ,公爵にまで上りつめることは異例中の異例ではないだろうか。「公爵山県家累代墓」とはこの特別な階級を山県家が累代世襲することを意味しているのだ。
続「豊島ヶ丘の護国寺」_c0013092_1125738.jpg続「豊島ヶ丘の護国寺」_c0013092_113263.jpg ここが山県有朋の墓だと思っている人は多いが,実は北側の奥まった所に山県有朋夫妻の巨大な墓はあるのだ。囲われた墓の入り口には鳥居がたち、ここも厳重に施錠され、立ち入りを禁じている。「身分の卑しきもの近寄るな」である。人間嫌いであった山県有朋にふさわしい。いまでは望み通りに、墓参に訪れる人もいない。彼は国葬になったが、参列者は少なく、警察と軍隊関係者のみであったと言われている。彼は人一倍、地位と勲章を欲しがった。残された写真をみると、胸一杯に勲章を下げたポートレートが多い。彼は7人の子を授かったが、幼くして次々と他界して、生き残ったのは女性が一人きりだった。哀れなことに爵位の栄誉を継ぐはずの男子がいなかった。

 山県夫妻の墓から累代墓にもどる。見ると、入り口の扉がわずかばかり開いているではないか。何かに誘われるように中に入った。外から見ただけではわからなかったが、敷地内の左右の木陰に小さな墓が建っているではないか。突然、その墓に木漏れ日がさして、レリーフが浮かび上がった。それは軍帽をかぶり木馬にまたがった少年の像であった。(続く)
by daisukepro | 2008-01-22 11:08 | 観光


<< もうひとつの「天空の城ラピュタ」 アメリカ脚本家組合のスト >>