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表現の自由が消える日

表現の自由が消える日

映画「靖国YASUKUNI」は映画の公開の自由が規制された事件である。
さすがのマスメディアもこれには総反発した。この統制に加担した文化庁の役人や国会議員から一言も反省の弁は聞こえてこない。対応に間違いはなかったと云う態度である。この映画を圧殺しようとした稲田朋美議員などは「日本国憲法は無効である。前文が間違っている」と公言して憚らない人物だから、選挙によって国会議員の資格を取り上げて、社会人として自由な発言させた方が国の為である。これら靖国派議員とタッグを組んで、マッチポンプをやった週刊新潮の記者にいたっては、上映館が21館に増えたのを見て、結局映画の宣伝にしかならなかったとぼやいている始末だ。

しかし、最近、テレビの取材、放送の自由が制約、規制される事例が増加している。2003年5月に個人情報保護法が成立して以来,放送現場ではこの傾向が急激に深まりつつあるという。
証言する人が危害を加えられる恐れのある場合、画像が証言者の後ろからのアングルになったり、首から上が画面から切れた画像で声だけ収録して放送することがよくある。出演する人の希望で顔にぼかしが入ったりするケースも時々あった。しかし、最近はこの手の画像が著しいく多く目につく。何でもない小学校などの情景録画ですべての小学生の顔にぼかしが入っているのは異常である。殺人現場などは必ずブルーシートがかけられ映像を撮ることが出来ない。それでもカメラマンはジートの隙間からわずかばかり垣間見える容疑者と思える足元を写したりしている。涙ぐましい努力である。
2年前、関西地方で交通機関の大事故が起こった。その一周年記念の追悼式典を取材したカメラマンは現地記者クラブに鉄道会社からいろいろ撮影場所の取材規制が出されて、アングルが規制され撮影がしにくかったと話していた。

取材においては実名が原則だが、警察が実名を出さないケースが多くなった、特に検察の情報コントロールが厳しいと云う。これでは本当に事件があったのかどうかも定かでなくなる。いつの間にか容疑者が逮捕され、裁判にかけられ、裁判官の推定で有罪になり、処分されかねない。ひと知れずベルトコンベアーにのせられ死刑になるという残酷すぎて笑えないことが起りかねない。取材に協力して資料を提供した精神科医が逮捕されるなどは知る立場から見ると本末転倒である。これでは調査取材は萎縮する。一日にして言論統制はならず、このような権力側のコントロールから次第に統制は抜き差しならない所に行き着くのである。
「もし、自白が強要されているならばすべて事実と整合するはずだ、自白に整合性のないところがあることが、自白が信用出来る証左である」などと判断して有罪判決をだすとんでもない裁判官まで出現すようになった。
表現の自由は民主主義のご本尊である。かくて、これらの事例が指し示す事柄は、ご本尊そのものの破壊に至る病の始まりのようで、身の毛がよだつ。この異様な裁判官の顔はアメリカ映画「ノーカントリー」の殺人鬼を見ているようだ。
by daisukepro | 2008-04-13 18:35


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