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岸井成格(きしい・しげただ)さんが15日、肺腺がんのため自宅で死去した


毎日新聞社特別編集委員でニュース番組のコメンテーターなどを務めた岸井成格(きしい・しげただ)さんが15日、肺腺がんのため自宅で死去した。73歳。後日、お別れの会を開く。

 東京生まれ。1967年慶応大法学部卒。同年毎日新聞社入社。ワシントン特派員、政治部長、論説委員長、主筆などを歴任した。

 コメンテーターとして、TBS日曜朝の情報番組「サンデーモーニング」などテレビやラジオなどに数多く出演。2013年から16年までTBSの夜のニュース番組「NEWS23」では、ニュースを分析し、掘り下げて伝えるアンカーを務めた。分かりやすい解説と歯に衣(きぬ)着せぬ発言で定評があり、14年には優れたテレビ作品などに贈られる「橋田賞」を報道番組の解説者として受賞した。16年にはTBSと専属契約を結んで「スペシャルコメンテーター」に就任した。

 著書に「大転換 瓦解へのシナリオ」「議員の品格」、主な共著に「政変」「政治家とカネ」などがある。


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by daisukepro | 2018-05-15 23:02 | サヨナラ

追悼 佐伯孚治監督 


追悼 佐伯孚治監督     小林義明

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いつか突然やってくる。その日は必ずやってくる。騒がしく人々に送られるか、静かに人知れず消えるか。

訃報は監督協会から告げられた。佐伯監督は今年(2018年)1月13日、浴室で倒れ、葬儀は近親者のみで済ませたそうだ。協会からは弔慰金が送られるという。

 僕は覚えている。友と過ごした日々を忘れない。

 数年前、簡易裁判所の表で別れたのが最後となった。長年不整脈を抱えていたが元気な様子でタクシーを呼び止め、「障害者用の券が利用できるんだ」と乗り込んだ。1年続いた事案もまた静かに決着がつき、支えてくれた労働組合役員と二人で見送った。腰が少し曲がりぎみなのが寂しかった。

 僕たちは毎年正月に鈴木邸で宴席を開いた。同席した顔ぶれの灘千造、深作欣二、大原清秀、堀長文と鈴木尚之、そして佐伯孚治──。次々と去って行く。「佐伯さんは無駄に長生きする感じだな」という仲間がいたが、無駄を除けばまさに的中した。行年91歳であった。

処女作は「どろ犬」である。結城昌治の「夜の終る時」を原作にした悪徳警官もの。チーフ助監督は降旗康男、僕は駆け出しの助監督だった。勝目貴久(脚本家)の実家が北鎌倉駅前にあり、そこの茶室でシナリオの部分修正を進めた。ケネディ暗殺の情報が入り、暗澹たる気分になった記憶がある。ともかく「どろ犬」はフランス映画の香りがする名作だ。今、東映のどこに眠っているのか。心残りでならない。。

 僕が東映東京撮影所で働き始めた頃、田坂具隆監督は「はだかっ子」の撮影に取りかかっていた。佐伯さんがチーフ助監督であった。「日活には本物のシティーボーイがいるが、ここは偽物が多い。どちらかと言えば学校の先生風だな」と、田坂監督が佐伯さんを見て笑った。言われてみると風貌はまさにインテリ、右翼に嫌われそうな顔立ちをしている。撮影所内には裕次郎風、宍戸錠風の俳優が闊歩していた。

 内田吐夢、田坂具隆、今井正、山本薩夫、家城巳代治、村山新治、関川秀夫などの演出陣。他では絢爛豪華堂々と大衆娯楽映画を、週刊誌を販売するように量産していた。

 60年代後半に入ると東映では経営危機による人員整理が始まり、常套手段として、まず組合に分裂攻撃、機構改革、そして分社化。そこへ選別した労働者を強制配転して隔離する。安売りのスーパーマーケットのように、ありとあらゆる組織攻撃を仕掛けてきたのである。

 佐伯監督は風雪に耐え、職場を守り抜く立場は揺らぐことはなかった。排除の論理が職場を風のように駆け抜けた。約2年間、就労排除の攻撃を喰らった時、僕らは二人並んでパチンコ台の前に座り、時間を潰したこともあった。佐伯さんはいつも僕のそばに寄り添ってくれた、かけがえのない人だった。

 佐伯世代は戦争が背後霊のように張り付いていた。あの戦争の正体を見極めて後世に残して行く責任がある。佐伯監督は東大時代、「わだつみの会」に飛び込み、活動していた。監督の映画への原点はこの辺りではないかと想像している。

いやな感じの今の世の中、耳をすませば軍靴の足音が聞こえる。「佐伯監督、安らかにお眠りください」とはとても言えない。

(日本映画監督協会の会報に寄稿した追悼文から)


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by daisukepro | 2018-03-18 21:24 | サヨナラ

漫画家の古賀新一さん死去

NEWS
2018年03月17日 10時31分 JST | 更新 3時間前

『エコエコアザラク』漫画家の古賀新一さん死去 ドラマ主演の佐伯日菜子が悲しみの声

「『エコエコアザラク』がなければ今の私はなかったのではないだろうか」

AMAZON.CO.JP/時事通信社

ホラー漫画「エコエコアザラク」などで知られる漫画家の古賀新一さんが3月1日、病気のため死去した。81歳だった。3月16日、秋田書店が公式サイトで発表した。

古賀さんは1975〜79年にかけて「週刊少年チャンピオン」で「エコエコアザラク」を連載。黒魔術を操るヒロイン・黒井ミサの周囲で起こる猟奇事件を描き、大ヒットした。これまでに数度にわたって映画やドラマにもなった。

1997年のドラマ化で黒井ミサを演じた佐伯日菜子さんは、16日夜にブログを更新。「『エコエコアザラク』がなければ今の私はなかったのではないだろうか」と、亡き古賀さんを偲んだ。

『エコエコアザラク』がなければ今の私はなかったのではないだろうか。

それほど、私にとってこの作品で黒井ミサとして生きてきた事はとても大きかった。

役に取り憑かれるという経験もした。 いっぱい悩んだし、肉体的にも本当に大変だったけど、一つの大きなドラマと映画を作り上げた充実感は忘れられない。 たくさんの方に愛された作品だった。

古賀新一先生のこと。 | 佐伯日菜子オフィシャルブログ「日菜歩路(ヒナブロ)」Powered by Amebaより 2018-03-16)

佐伯さんは「古賀先生はいつも穏やかでニコニコとしていた。ご自身がパソコンで作ったアニメーションのエコエコアザラクも見せてくださった」と生前の交流をふりかえった。

ブログの最後では「もう先生はこの世界にいらっしゃらないんだなと思うととっても寂しい。だけど、先生の作品は残り続けるし誰かの心にしっかりと刻まれている」と、哀悼の言葉を綴った。



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by daisukepro | 2018-03-17 13:39 | サヨナラ

腹部大動脈瘤破裂のため東京都内で死去した。88歳。

テレビドラマ「夢千代日記」などで知られる脚本家で作家の早坂暁(はやさか・あきら、本名富田祥資=とみた・よしすけ)氏が16日午後2時、腹部大動脈瘤破裂のため東京都内で死去した。88歳。松山市出身。

 関係者によると、外出先で体調を崩し、運ばれた病院で死去したという。

 「七人の刑事」「天下御免」など数多くのテレビドラマを手掛けた。生と死をテーマにした作品が多く、吉永小百合さん主演の「夢千代日記」シリーズや、生まれ育った商家を舞台にした「花へんろ」シリーズが人気を集めた。

 映画「天国の駅」などの脚本を担当。自伝的小説「ダウンタウン・ヒーローズ」が映画化された。

(共同)
 テレビ朝日の日本剣客伝、宮本武蔵四部作(降籏組)、三國連太郎が武蔵、永山一夫が小次郎、吉村実子がお通という配役だから、当時としてはかなり異色であった。三国さんは武蔵を労働者の一人として演じると説明するのだが、なんでそなことを言うのかさっぱり理解できなかった。俺は助監督の一人で予告編などを撮らされていた。早坂さんは脚本の出来上がりがおくれた。なのでおそさかさんと呼ばれていた。がこの番組に関しては問題なかった。三国さんは鬼籍に入り、永山さんは北朝鮮に帰国したまま消息を絶った。

 死去した早坂暁さん

 死去した早坂暁さん

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by daisukepro | 2017-12-17 15:31 | サヨナラ

原寿雄さんの死を悼みながら 17/12/9

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

原寿雄さんの死を悼みながら 17/12/9

明日へのうたより転載

 元共同通信の原寿雄さんが92歳で亡くなった。『赤旗』が7日付の社会面(死亡欄)で報じ、9日付の「潮流」で追悼の言葉を贈っている。「亡くなるまで、ジャーナリズムのあり方や表現の自由の大切さを語っていた原さん。その熱いメッセージから学んだ記者は多い。ジャーナリストは自由の消費者ではない。自由の生産者、構築者たれ」。原さんが労働運動家としても優れていたのはあまり知られていない。

 おれは茨城の高校を出て、1956年に毎日新聞東京本社印刷局に入社した。1年の試用期間を過ぎて組合員になるとすぐ職場新聞を発行。それが認められて58年に青年部書記、59年には新聞労連東京地連青婦協議長に選出された。その時新聞労連副委員長・東京地連委員長をしていたのが原寿雄さんだ。

 60年安保最盛期には新聞労連も連日500~1000人の動員をしたが、始めの頃はちょぼちょぼだった。原委員長の後に労連旗を持ったおれしかいないなんてこともあった。「なんだブル新しっかりしろ」などと野次られたりした。それでも原さんは毅然として前を向いて行進していた。

 60年は安保とともに三池闘争もたたかわれた。原さんは総評の常駐オルグとして現地闘争本部に派遣された。総評は5月27日から30日まで全国からオルグ団を結集、東京地連も8人を現地に送り込んだ。おれはその一員だったが、ホッパー前でデモを指揮する原委員長を誇らしく思ったものだ。

 安保も三池もたたかいが終結した61年7月、新聞労連東京地連定期総会でおれは書記長になった。委員長は4期目の原さん。当時新聞労連書記局は京橋にあった。非専従書記長のおれは有楽町駅前の毎日新聞社から歩いて通った。原さんは労連副委員長の仕事が主なので地連関係はおれに任された形だった。

 役選の難航のため開催の遅れた62年11月の労連大会で原さんは専従を降り共同通信の職場に戻った。同時に東京地連委員長も退任したのだが、最後の議案書づくりでアクシデントがあった。原さんとおれで分担してつくった議案書の原稿を印刷屋が紛失してしまったというのだ。

 さあ大変。今日中に原稿を書かないと定期総会に間に合わない。原さんは原稿用紙を広げて資料も見ずに書き出した。その早いこと。最初のより幾分分量は減ったが一応形を成して印刷屋に渡した。おれにとっては懐かしい思い出である。――数年新聞労連主催で前原さんの講演会があって、終わってから挨拶したらちゃんとおれを覚えていてくれた。嬉しかった。原さんのご冥福をお祈りします。

 

 


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by daisukepro | 2017-12-12 12:06 | サヨナラ

サヨナラ  「バラバラマンこと斉藤晴彦 」

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サヨナラ 斉藤晴彦

読売新聞の訃報で斉藤晴彦さんの死去を知った。
死を悼み謹んで哀悼の意を表します。

30代の頃、新宿、一緒に夜の街を徘徊したものだ。
カヌー、テアトロ、ユニコン、カプリコンも今はない。
当時、テレビ東京は東京12チャンネルと呼ばれていた。番組名はプレーガール、題名は「女殺し昭和元禄」(1968年)でテロリスト青年の役でゲスト出演していただいたのが最初かもしれない。ゲスト主演は伴淳三郎、殺人教室の校長で若いテロリストを育成している。  そこの卒業生の一人が斉藤さんの役どころである。
 
 新宿駅西口に地上から地下広場に螺旋状に通じる自動車用のロータリーが完成したばかり、珍しかった。地下広場にはホームレスが棲みつき、夕方にはどこからともなく青年たちが集まってきてベトナム反戦フォークを合唱した。野次馬と一緒になってたちまち地下広場はいっぱいになった。
 京王デパート横に南口に通じる路地があり、一人の青年が「グットバイ」とタイルばりの地面に落書きをするところからトップシーンが始まる。コウモリ傘を肩にロータリーを逆行して地下広場へ鼻で歌いながら降りて行く。
 青年は電話ボックスの穴から傘を突き刺し、殺す。誰でもよかった。穴から引き抜くと傘はズバッと開いた。

 コウモリ傘のイメージはフジテレビ、朝9時番組の元祖「ロボット8ちゃん」のバラバラマンのキャラクターに引き継いだ。ロボットが町中に住み、人間か、ロボットかどうか区別できないという、近未来の設定なので、悪いロボットから人間を守るためにロボットを規制する法律も出来るだろう。そうすると法律違反をするロボとも出てくる。ロボット管理局ができる。そこの役人の役を斉藤さんのために考えた。斉藤ロボット取締官はことのほかロボット8ちゃんがお嫌い。追いかけ回しバラバラにして鉄くずにしたくてたまらない。それを8ちゃんを愛するこども達が防衛する、日本的トムとジェリー
、これでこの企画のコンセプトはいけると思った。
ところがである、作品ができあがると内部から批判がわき起こった。監督である私を排除して、密室協議が行われた。

 報告によると番組の神聖な商品である8ちゃんをバラバラにして壊すなどという発想はけしからんというクレームだったようだ。監督を排除することで一件落着、幸いにもバラバラマンは救われた。エンディングに使用された天才詩人浦沢義雄、天才作曲家小林亜星のマカロニウエスタン風、名曲は生き残った。
しかし、こどもたちがバラバラマンを罠にかけて岸壁から海に突き落とすシーンが追加撮影されていたことで監督生命が首の皮一枚で救われたという人がいたので、非難の矛先は間違えなく私であった。

 そのシーンを撮影する日、バラバラマンの衣装に身を固めた斉藤さんが現場にやってきた。「斉藤さん、海に飛びこんでもらいますがいいですか」ときりだした。
斉藤さんは話を事前に聞いていたらしく、一瞬ためらったがそういわれるとやるしかないですとこたえたので残酷にも撮影は直ちに開始された。
 なので、追悼文だというのに不適当な話を長々として、何が言いたいかというと私の監督生命を斉藤泰彦という役者が救ってくれたことである。
 番組が放送されると前の番組の視聴率1、4%から2、4%に倍増、その後、視聴率は順調に伸びた。リサーチによればバラバラマンが子供らの一番人気であった。

 私はこの1話限りでロボット8ちゃんの監督をやることはなかった。このシリーズが少年探偵もの、美少女シリーズになってから企画を7年間担当した。斉藤さんはメジャーの役者となり、黒テントの演劇活動を支えてきた。視聴者とお客様は私たちの神様です。
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by daisukepro | 2014-06-29 19:41 | サヨナラ

サヨナラ 瀬尾脩

 弔報ファックスが入った。瀬尾カメラマンの葬儀日程の通知である。つくば市にあるメモリアルホールで今晩、通夜が行われる。いつ亡くなられたか記載はない。火葬である。瀬尾夫人の葬儀は土葬であった。 喪主は瀬尾宗臣とある。長男の息子さんであろう。『コバさん,せがれがオートバイを買ってくれと言うんだ。仕方ないので「よし分かった棺桶もついでに買ってやる。それでもいいかって言ってやった」。
あぐらをかいて、酒をくらう様は豪快であった。突き出た腹は布袋のようだ。押し入れから小型の35ミリカメラを腹にのせるように抱え出て来たりするカメラマンであった。
 宇宙刑事パイロット版の制作を一緒にやった。まだCG技術はなく、合成は東通のECG、現像はアメリカに送った。テレビ番組がテレビ映画と呼んでいた時代、撮影はビデオではなくフィルムが使われた。 打合せをするわけでもなく最初のポジションが決まると、次のポジションに常にカメラがあった。被写体との空間を意識しながら演出することができる、今思い返すと幸せな時間であった。
 やがて、フィルムからテープに、映画は番組となり、映画監督は番組ディレクターになり,シナリオは契約書になった。
83歳、瀬尾カメラマンもこの世を去り、私も年老いた。長い労働争議があったが、職場を守り抜いた。よき時間をともに働いたことを誇りに思う。サヨナラ、偉大なカメラマン、瀬尾大人 謹んで哀悼の意を表します。(通知を送ってくれた人、ありがとう。葬儀に出られず残念無念)
2014年5月18日
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by daisukepro | 2014-05-18 16:49 | サヨナラ

サヨナラ 木村京太郎

さよなら京太郎

去る、9月13日、読売広告のプロデューサー木村京太郎さんのお別れ会が赤坂のホテルで行われ、約250名が参列した。行年58歳の若さだった。既に読売広告社は退職していたが東映アニメとピエロ、読売広告の3社合同で開かれた。
式次第は読経の代わりにジャズ生演奏、献花、会食、ビデオ上映、特に親しかった友人たちの言葉、親族のあいさつでお別れ会は幕を下ろし、参列者は三々五々赤坂の街に消えて行った。

 c0013092_1743243.jpg私はフジテレビの日曜朝9時の児童番組で7年間、東映企画者として京太郎さんと一緒に仕事をした。いわゆる、アニメではない実写の子ども番組である。広告代理店の仕事はテレビ局、製作会社、スポンサーの間で共同作業が円滑にすすめられるように気配りをしなければならず、それだけでも細かい神経と図太い精神の持ち合わせていなければ勤まらない。それプラス、企画意図を実現するための発想やキャラクターイメージを具体化しなければならない。京太郎さんはこれらの仕事を軽やかにこなして行くのである。それに、今風に言えばイケメンだったので、女性が放っておかなかった。
当時、映画界は児童を対象とした番組を「ジャリ番(組)」と業界用語で呼んでいた。その番組に携わるスタッフは劇場用映画のスタッフから差別扱いされていた。そもそも、映画界はテレビそのものを電気紙芝居呼ばわりして、映画5社協定を結び、自社俳優のテレビ出演を規制していた。その時代の名残である。「ジャリ番」はローバジェットで労働条件が悪いだけでなく、30分単位で制作されるため30分もの、60分のテレビ番組、これを一時間もの、「大人番」と呼びそれからもさらに差別されていた。それだけではない。この種類の番組には常識のようなもの、大人たちの目線で見て、子どもはこうあらねばならないという保守的なルールが存在していたのである。例えば、ヒローはタバコをすわない、立ち小便はしないなどである。

幸いなことに各社から集められた企画者集団は企業の立場を超えて、すぐに仲良くなった。神々の思し召しなのか、偶然なのかは分からない。もっとも、これは私ひとりの勝手な思い過ごしかもしれないが、類は友を呼ぶということわざを思い出す。わたしたちには共通の敵がいた。私たちは会ってから三日も経たずに、このコンサバティブな掟を打破して何か分からないが新しいことをやろう、それを今時の子ども達は待っているんだという勝手な思いを共有することになった。けれども、この共有する価値観に綱領や規約のようなものはなく、話し合う中で自然と同じ方向を向くという具合に仕事をした。なので、これを規制する側に取っては難しいことだったのか、視聴率が順調に伸びるに従って映画企業の管理職から放任される結果となった。しかし、これは言うは易く、幾重にも張り巡らされた関門を通過しなければ実現しないのだ。お庭番のような方も存在していたようであった。あるゴールデンタイムの番組では現場でプロデューサーを批判しようものなら、翌日はそのスタッフが呼び出されるということが続いたので、ガセネタを流して犯人をつきとめたりしたという話が伝わってきたりした。笑えない職場だったのである。この奇妙な職場が映画会社に存在した経緯は別の機会にするが、いずれは書くことになるだろう。

当時、情熱を燃やしてジャリ番組の制作に取り組んだ仲間は、あるものは社長になり、会長になり、またあるものは常務取締役になり、さらに顧問などになった。サラリーマンとしては出世コースを歩んできた人ばかりである。
テレビ局の取締役は京太郎さんが提出した企画書とメモ書きを持参してくれた。驚くなかれ、それは数十年前、この番組の最初の企画書であった。お別れ会では回顧ビデオが上映されたが、そこで現テレビ局の常務取締役は京太郎さんと当時の番組に登場して仲良くジュエットする場面が映し出された。あいさつで「あのころの現場は活気があった。いまは情熱があまり感じられない。現場に活気と情熱を取り戻したい」と話した。番組制作の要は脚本であるが、浦沢義雄という天才ライターは忘れられない。詩人だが、脚本の構成力は抜群であった。いまでも活躍していると思う。彼の発案だと思うが「人生は2度ない3度ある」というキャッチフレーズがあった。京太郎さんもこの言葉を好んでいたという。忘れがたい京太郎さん自身の言葉としては「時代から感性がずれたら、いつでもこの仕事を辞める」「キャラクターは死なない」である。

喪主の久美子さんから参加者には音楽CDがプレゼントされた。「チェットベーカー」の物悲しいトランペットが流れてきた。なかでも、彼は「マイファニーバレンタイン」を愛していたという。私たちの思い出となった職場は大泉の東映東京撮影所の外れにあったが、私たちが退職後、建物は解体され、いまでは映画館になっている。
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by daisukepro | 2010-11-18 17:05 | サヨナラ

オールドブラックジョー(サヨナラ!カメラマン堀美臣)

オールドブラックジョー(サヨナラ!カメラマン堀美臣)


8月9日、堀美臣カメラマンのお別れ会に出席した。c0013092_0111570.jpg渋谷は雨だった。会場は東急本店の裏にある小さな映画館であった。表階段を上がるとレストランがあり、そこで待たされた。20人はいたろうか、知った顔もちらほら見えた。しばらくして奥の部屋に案内された。映画館というより映写設備のある部屋である。にわか造りの椅子席を含めて約50席、満席になった。スクリーンには堀カメラマンのスナッップ写真が映し出されていた。その前で生前ゆかりの人々が次々と立った。
新体連、労働組合、仕事、そして交遊、自由人として生きた在りし日の姿が断片的に語られた。おぼろげに堀カメラマンの全体像が浮かび上がってきた。誰かが、「堀さんといえばこれとこれですね」と手振りを見せた。左手の指先でおちょこの形を、右手でタバコを挟む仕草をこしらえて2本指を口まで上げた。
お別れのスピーチが終わった。場内が暗転してCRTプロジェクターから映像が映し出された。タイトルは「記憶と記録の間で」、それは奇妙な短編映画だった。撮影スタッフらしき一行が会津若松を訪れるところから始まる。男がフレームインしてくる。無造作にフレームの手前から、しかも後ろ姿だ。振り向くとまぎれもなく掘カメラマンその人だ。小さなスーパーの店先のベンチに腰を下ろした。すっかりやせ細って痛々しい。メガネをかけ、コンチネンタル風の髭には白髪がめだった。
「さあ、いこか」
堀カメラマンは命令口調で言葉を発して立ち上がった。ロケ場所の案内をたのまれたのか、いかにも地元風の男性が付き添っていた。ジャガイモのしなびたような面立ちに濃いまつげ、その顔に見覚えがある。けれど、誰だったか思い出せない。
堀カメラマンが蛍を撮影したいというので、ジャガイモ男が案内した。その場所に沼はなく、蛍はいない。道路になっていた。結局、「望みの蛍が撮れないので、星空を撮った」というスーパーが入ると満天の星空が撮影されていた。星空を撮るのは結構難しい。場所や天気もあるし、技術も必要だ。このカメラマンかなり拘っている。驚いたことに生きた源氏蛍を撮影していた。昆虫図鑑のようだ。この記録映画に必要なカットとは思えないが、これも撮影に成功するためには特別な機材とカメラ技術が求められるのだ。何よりも時間がかかる。それで合成や写真で処理するのが普通だ。まだある、雨蛙が産卵?する瞬間、軒下で嘴を開いて餌をねだる子ツバメ。画面の外から堀カメラマンの声が聞こえる。「強いよ、強いよ。そうそれでいい」ツバメの巣に光があたったり、外れたりした。照明機材のレフを使っているのだろう。カメラマンが「それでいい」というとツバメの巣はコントラストがとれてバランスよく映るのだ。画面に映し出されているのはツバメの巣だけだが、声はフレームの外から聞こえてくる。「よーし、とれた、カット!」このやり取りを聞いているうちに、急に記憶がよみがえった。もしかするとこのレフを操作しているのは昔、撮影所にいた照明部のNちゃんではないか。
つぎのシーンでそのジャガイモ男はインタビューをうけていた。鈴木清順の「けんかエレジー」について「あれは会津文化そのもの」などと映画談義が果てしない。まぎれもなくNだった。30年以上も会っていなかったが記憶というものは不思議なものだ。
何故か中学生の頃、訳もわからずに読んだプルーストの長編小説「失われた時を求めて」の水中花の一節を思い出し、プルースト風の気分になった。
映画には会津弁で語るひょっとこ伝説や雪の農村を徘徊するひょっとこのイメージ映像が出てくるがいろいろな記憶に気を取られて消化不良をおこした。ひょっとこはどこか麻生に似てるなと思ったりした。c0013092_0114080.jpg「儲からない映画でも、映画人は映画を撮りたいものですかね」と短編映画が上映される前にプロデューサーが挨拶していたが、資金繰りに苦労している人らしい。
堀カメラマンには長年培った技術があった。それを発揮する機会がなかった。たとえワンカットの情景であっても堀カメラマンの気持ちが伝わってくる気がする。どんなに映画が撮りたかっただろうか。思う存分大作のカメラを回して欲しかった。
映画が終わるとスクリーンに静止画像が浮かんだ。病床の堀カメラマンだ。ベットで上半身をおこし何か書いているところだ。メッセージが読み上げられた。「僕は先に行っているが、急がなくていい。いつでも待っているから・・・・・・・・」
池袋で途中下車した。雨はいつの間にか上がり、白いビニール傘を杖にして家路に着いた。先月の終わりにシナリオライター「パウロ高久進」の葬儀に出たばかりだ。教会がある百合ケ丘の駅に降りると急に土砂降りの雨になった。仕方なく駅の売店で買ったものだ。
うろ覚えのオールドブラックジョーを鼻歌で歌いながら夜道を急いだ。

「 I'm coming, I'm coming, for my head is bending low,
I hear those gentle voices calling "Old Black Joe"」

「きっこのブログ」にひょっとこのポスターがのっていた。よく出来ているので無断で転載させてもらう。町中に張り出したいくらいだ。
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by daisukepro | 2009-08-14 00:14 | サヨナラ

サヨナラ、丹波哲郎

サヨナラ、丹波哲郎

丹波哲郎の通夜、無宗教者の葬儀なので読経の声や線香の匂いはない。青山斎場内の菊の匂いにむせ返る。祭壇は大霊界の風景の中に棺と写真がアレンジされている。3分間黙祷を捧げ、突如、Gメン75のテーマソングが流れた。
別れの挨拶は山田洋次、瀬川昌治監督、どこかの社長、女優の坂口良子、そして童謡月の砂漠をBG曲に献花が始まる。
c0013092_23114397.jpg帰路の地下鉄の中で会葬お礼の封書を何気なく開くと手招きする丹波さんのサイン入りのポートレートが入っていた。「一足先に旅立つよ。みんなむこうで待ってるぞ。じゃあな!」
勿論、むこうとは天国や地獄ではなく大霊界、丹波さん云うところの反物質の世界である。悲しみはなく、まだ生きているような気がする。
「みんないなくなっちゃってーー」薄暗い回廊の片隅で丹波さんの麻雀仲間が消え入るように立っていた。握手の温もりから悲しみがしみてくる。
サヨナラ、丹波哲郎。手招きはやめてくれーーーーーー!
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by daisukepro | 2006-09-29 23:20 | サヨナラ