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アナン元国連事務総長死去 協調外交でノーベル平和賞

 【ニューヨーク共同】国連によると、米中枢同時テロやイラク戦争など世界が大きく揺れた1997~2006年に国連トップの事務総長を務め、01年にノーベル平和賞を受賞したコフィ・アッタ・アナン氏が18日、スイスで死去した。80歳だった。死因は明らかになっていない。

 アフリカ出身の事務総長として弱者や人権に重きを置く国連の基礎的な価値観を重視。グローバル化の中、国連を軸にした協調外交を進めた点が評価されノーベル平和賞を受賞、03年に始まった米国主導のイラク戦争には一貫して反対した。

 死去したコフィ・アッタ・アナン氏(ロイター=共同)

 死去したコフィ・アッタ・アナン氏(ロイター=共同)


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by daisukepro | 2018-08-19 00:13 | サヨナラ

桂歌丸さん死去、81歳 「笑点」や古典落語の発掘にも尽力

桂歌丸さん死去、81歳 「笑点」や古典落語の発掘にも尽力

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忘れられた落語を、後世に伝えたい――。そんな思いを生前に語っていた。


演芸番組「笑点」で最後の司会を務めた後、大喜利メンバーとともに記者会見した桂歌丸さん=2016922日午後、東京都千代田区


落語家の桂歌丸さんが72日に死去したと毎日新聞などが報じた。81歳だった。

桂歌丸(本名:椎名巌、しいな・いわお)さんは19368月、横浜市真金町の出身。51年に古今亭今輔に入門。前座名「今児」を名乗った。

54年に二ツ目昇進後、桂米丸に入門。「桂米坊」を名乗った後、64年「桂歌丸」に改名。683月に真打昇進を果たした。

日本テレビの演芸番組「笑点」では1966年の放送開始時から大喜利レギュラーとして出演。立川談志、三遊亭圓楽(5代目)などともに茶の間を賑わせた。

歴史に埋もれた落語「後世に伝えるのも我々の使命」

埋もれた古典落語を発掘し、改良を加えて再び高座に復活させる取り組みでも知られた。「辻八卦(はっけ)」「小烏丸」「いが栗」「毛せん芝居」など数々の落語を掘り起こし、持ちネタにした。

忘れられた落語を、後世に伝えたい――。その理由を、歌丸さんは生前にこう語っていた。

「埋もれた話というのはどこかに欠陥がある。差別問題を扱ったり、放送禁止用語があったり......。でも埋もれさせとくには惜しい。そこを改作すれば、十分おもしろい話として残してゆける。これらを後世に伝えてゆくのも我々の使命ですよ」(198926日・朝日新聞夕刊より)

五代目圓楽の死去後、2009年「笑点」の司会者に就任。時に政治風刺を交えた鋭いコメントも光った。三遊亭楽太郎(現:6代目圓楽)との掛け合いは、大喜利の鉄板ネタだった。

20165月、放送スタート50周年の節目に「笑点」を卒業。司会を春風亭昇太に引き継いだ。

近年は体調不良で入退院を繰り返し、鼻に酸素吸入のためのチューブをつけて高座にあがったこともしばしばだったが、最期まで高座にかける情熱は衰えることはなかった。

戦争を経験した世代として、いかにして平和の尊さを後世に伝えていくべきか。

戦後70年となった2015年、歌丸さんはNHKのインタビューにこう語っている。

「人にそんなこと(戦争について)伝えられません。それは個々に感じることです。自分自身で経験して自分自身で判断しているんです」

「伝えていくべきだとは思いますけれども、話をしただけでは分かってくれないですよね。食糧難時代というものがどういうもんだったのか。あるいは焼夷弾というものがどういう落ち方をして、爆弾というものがどういうふうに落ちたのか。そして進駐軍というのが戦後になって乗り込んできてどういう思いをしたのか」

「口では言えますけれども、ご存じないからそれは身を持って体験することはできません。けれども伝えていくべきだと思います、私は」


NHK「私の中の戦争 落語家 桂歌丸さん ~疎開の日々そして・・・~ - MIRAIMAGINE

戦争を経験した世代は「道の雑草を摘んできて食べて命つないでた」と、歌丸さんは当時の過酷な生活を語った。

ただ、「話をしただけでは分かってくれない」。そんな危機感が、言葉の端々から感じられる。

「決して忘れてはいけないこと。日本は二度と再びああいう戦争は起こしてもらいたくないと思いますね。あんなものは愚の骨頂です。世界中が本当の平和にならなきゃいけない時代が早くこなくちゃならないと思っていますね」

「子どもさんたちに難しいことかもわかりませんけれども、簡単に言えば、戦争、人間同士の争いというもの、あるいは国同士の争いというものこういうものは決してやるもんじゃないということを感じてもらいたいですよね。本当にいやな思いをしましたんでね」


NHK「私の中の戦争 落語家 桂歌丸さん ~疎開の日々そして・・・~ - MIRAIMAGINE

戦争の悲惨さや愚かさを、後世にどう伝えていくべきか。歌丸さんは「お父さん、お母さん」の役割が大きいと説く。

「お父さんとお母さんに私はお願いしておきたいんだ。子どもさんにこういう悲惨なことを伝えていってよく聞かせてやって頂きたい」

「今のお父さんやお母さんは年が若いんで経験がないと思います。でもおじいさんおばあさんがいたらば、おじいさんおばあさんに、孫にあるいはひ孫に日本はこうだったんだああだったんだっていうのをきちんと伝えていってもらいたいと思います」


「そしてあまり平和に慣れ過ぎないように。これでいいんだと思わないように。苦労というものが人間には必ずあるんだということ、これを心に留めておいてもらいたいですね。だから子どもさんがどの方の意見を選ぼうがかまいませんけれどもよくかみしめて頂きたいと思います」


NHK「私の中の戦争 落語家 桂歌丸さん ~疎開の日々そして・・・~ - MIRAIMAGINE


心から「笑い」を楽しめる幸せを、いま噛み締めたい



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日蓮宗長瀧山「本法寺」公式サイトより

「はなし塚」


歌丸さんが「決してやるもんじゃない」と語った戦争。先の大戦は、落語にも暗い影を落とした。

全てが戦争に動員された時代、男女の仲や人間の業を描いた落語は不謹慎だとされた。遊郭を題材にした廓噺や艶笑噺は、「風俗を乱す」などの理由で自粛が求める声が強まっていた。

1941年、落語家たちは浅草・本法寺に「はなし塚」という塚を建立。53演目の「禁演落語」を葬った。その中には「明烏」「五人廻し」「木乃伊取り」「居残り佐平次」「錦の袈裟」など、数々の名作が含まれた。

終戦翌年の19469月、禁演落語は「禁演落語復活祭」で甦った。当時、本法寺の住職は「山河亡びたる邦国の民に真の笑ひを」と述べたという。

歌丸さんは生前、こんな言葉を残している。

「文化に国境はない」

会長メッセージ|落語芸術協会より)

心から「笑い」を楽しめる幸せを、いま噛み締めたい。

 日本テレビ系演芸番組「笑点」のレギュラーを長く務め、軽妙な語り口で親しまれた落語家の桂歌丸(かつら・うたまる、本名椎名巌=しいな・いわお)さんが2日午前11時43分、慢性閉塞性肺疾患のため、横浜市内の病院で死去した。81歳。横浜市出身。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は妻椎名冨士子(しいな・ふじこ)さん。お別れ会を11日午後2時から横浜市港北区菊名2の1の5、妙蓮寺で開く。

 15歳で古今亭今輔に入門し、後に桂米丸さんの門下に。1966年に始まった「笑点」で大喜利レギュラーに。68年に真打ちに昇進した。

 寄席では、埋もれていた古典落語を高座にかけた。

(共同)



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by daisukepro | 2018-07-02 22:37 | サヨナラ

岸井成格(きしい・しげただ)さんが15日、肺腺がんのため自宅で死去した


毎日新聞社特別編集委員でニュース番組のコメンテーターなどを務めた岸井成格(きしい・しげただ)さんが15日、肺腺がんのため自宅で死去した。73歳。後日、お別れの会を開く。

 東京生まれ。1967年慶応大法学部卒。同年毎日新聞社入社。ワシントン特派員、政治部長、論説委員長、主筆などを歴任した。

 コメンテーターとして、TBS日曜朝の情報番組「サンデーモーニング」などテレビやラジオなどに数多く出演。2013年から16年までTBSの夜のニュース番組「NEWS23」では、ニュースを分析し、掘り下げて伝えるアンカーを務めた。分かりやすい解説と歯に衣(きぬ)着せぬ発言で定評があり、14年には優れたテレビ作品などに贈られる「橋田賞」を報道番組の解説者として受賞した。16年にはTBSと専属契約を結んで「スペシャルコメンテーター」に就任した。

 著書に「大転換 瓦解へのシナリオ」「議員の品格」、主な共著に「政変」「政治家とカネ」などがある。


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by daisukepro | 2018-05-15 23:02 | サヨナラ

追悼 佐伯孚治監督 


追悼 佐伯孚治監督     小林義明

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いつか突然やってくる。その日は必ずやってくる。騒がしく人々に送られるか、静かに人知れず消えるか。

訃報は監督協会から告げられた。佐伯監督は今年(2018年)1月13日、浴室で倒れ、葬儀は近親者のみで済ませたそうだ。協会からは弔慰金が送られるという。

 僕は覚えている。友と過ごした日々を忘れない。

 数年前、簡易裁判所の表で別れたのが最後となった。長年不整脈を抱えていたが元気な様子でタクシーを呼び止め、「障害者用の券が利用できるんだ」と乗り込んだ。1年続いた事案もまた静かに決着がつき、支えてくれた労働組合役員と二人で見送った。腰が少し曲がりぎみなのが寂しかった。

 僕たちは毎年正月に鈴木邸で宴席を開いた。同席した顔ぶれの灘千造、深作欣二、大原清秀、堀長文と鈴木尚之、そして佐伯孚治──。次々と去って行く。「佐伯さんは無駄に長生きする感じだな」という仲間がいたが、無駄を除けばまさに的中した。行年91歳であった。

処女作は「どろ犬」である。結城昌治の「夜の終る時」を原作にした悪徳警官もの。チーフ助監督は降旗康男、僕は駆け出しの助監督だった。勝目貴久(脚本家)の実家が北鎌倉駅前にあり、そこの茶室でシナリオの部分修正を進めた。ケネディ暗殺の情報が入り、暗澹たる気分になった記憶がある。ともかく「どろ犬」はフランス映画の香りがする名作だ。今、東映のどこに眠っているのか。心残りでならない。。

 僕が東映東京撮影所で働き始めた頃、田坂具隆監督は「はだかっ子」の撮影に取りかかっていた。佐伯さんがチーフ助監督であった。「日活には本物のシティーボーイがいるが、ここは偽物が多い。どちらかと言えば学校の先生風だな」と、田坂監督が佐伯さんを見て笑った。言われてみると風貌はまさにインテリ、右翼に嫌われそうな顔立ちをしている。撮影所内には裕次郎風、宍戸錠風の俳優が闊歩していた。

 内田吐夢、田坂具隆、今井正、山本薩夫、家城巳代治、村山新治、関川秀夫などの演出陣。他では絢爛豪華堂々と大衆娯楽映画を、週刊誌を販売するように量産していた。

 60年代後半に入ると東映では経営危機による人員整理が始まり、常套手段として、まず組合に分裂攻撃、機構改革、そして分社化。そこへ選別した労働者を強制配転して隔離する。安売りのスーパーマーケットのように、ありとあらゆる組織攻撃を仕掛けてきたのである。

 佐伯監督は風雪に耐え、職場を守り抜く立場は揺らぐことはなかった。排除の論理が職場を風のように駆け抜けた。約2年間、就労排除の攻撃を喰らった時、僕らは二人並んでパチンコ台の前に座り、時間を潰したこともあった。佐伯さんはいつも僕のそばに寄り添ってくれた、かけがえのない人だった。

 佐伯世代は戦争が背後霊のように張り付いていた。あの戦争の正体を見極めて後世に残して行く責任がある。佐伯監督は東大時代、「わだつみの会」に飛び込み、活動していた。監督の映画への原点はこの辺りではないかと想像している。

いやな感じの今の世の中、耳をすませば軍靴の足音が聞こえる。「佐伯監督、安らかにお眠りください」とはとても言えない。

(日本映画監督協会の会報に寄稿した追悼文から)


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by daisukepro | 2018-03-18 21:24 | サヨナラ

漫画家の古賀新一さん死去

NEWS
2018年03月17日 10時31分 JST | 更新 3時間前

『エコエコアザラク』漫画家の古賀新一さん死去 ドラマ主演の佐伯日菜子が悲しみの声

「『エコエコアザラク』がなければ今の私はなかったのではないだろうか」

AMAZON.CO.JP/時事通信社

ホラー漫画「エコエコアザラク」などで知られる漫画家の古賀新一さんが3月1日、病気のため死去した。81歳だった。3月16日、秋田書店が公式サイトで発表した。

古賀さんは1975〜79年にかけて「週刊少年チャンピオン」で「エコエコアザラク」を連載。黒魔術を操るヒロイン・黒井ミサの周囲で起こる猟奇事件を描き、大ヒットした。これまでに数度にわたって映画やドラマにもなった。

1997年のドラマ化で黒井ミサを演じた佐伯日菜子さんは、16日夜にブログを更新。「『エコエコアザラク』がなければ今の私はなかったのではないだろうか」と、亡き古賀さんを偲んだ。

『エコエコアザラク』がなければ今の私はなかったのではないだろうか。

それほど、私にとってこの作品で黒井ミサとして生きてきた事はとても大きかった。

役に取り憑かれるという経験もした。 いっぱい悩んだし、肉体的にも本当に大変だったけど、一つの大きなドラマと映画を作り上げた充実感は忘れられない。 たくさんの方に愛された作品だった。

古賀新一先生のこと。 | 佐伯日菜子オフィシャルブログ「日菜歩路(ヒナブロ)」Powered by Amebaより 2018-03-16)

佐伯さんは「古賀先生はいつも穏やかでニコニコとしていた。ご自身がパソコンで作ったアニメーションのエコエコアザラクも見せてくださった」と生前の交流をふりかえった。

ブログの最後では「もう先生はこの世界にいらっしゃらないんだなと思うととっても寂しい。だけど、先生の作品は残り続けるし誰かの心にしっかりと刻まれている」と、哀悼の言葉を綴った。



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by daisukepro | 2018-03-17 13:39 | サヨナラ

腹部大動脈瘤破裂のため東京都内で死去した。88歳。

テレビドラマ「夢千代日記」などで知られる脚本家で作家の早坂暁(はやさか・あきら、本名富田祥資=とみた・よしすけ)氏が16日午後2時、腹部大動脈瘤破裂のため東京都内で死去した。88歳。松山市出身。

 関係者によると、外出先で体調を崩し、運ばれた病院で死去したという。

 「七人の刑事」「天下御免」など数多くのテレビドラマを手掛けた。生と死をテーマにした作品が多く、吉永小百合さん主演の「夢千代日記」シリーズや、生まれ育った商家を舞台にした「花へんろ」シリーズが人気を集めた。

 映画「天国の駅」などの脚本を担当。自伝的小説「ダウンタウン・ヒーローズ」が映画化された。

(共同)
 テレビ朝日の日本剣客伝、宮本武蔵四部作(降籏組)、三國連太郎が武蔵、永山一夫が小次郎、吉村実子がお通という配役だから、当時としてはかなり異色であった。三国さんは武蔵を労働者の一人として演じると説明するのだが、なんでそなことを言うのかさっぱり理解できなかった。俺は助監督の一人で予告編などを撮らされていた。早坂さんは脚本の出来上がりがおくれた。なのでおそさかさんと呼ばれていた。がこの番組に関しては問題なかった。三国さんは鬼籍に入り、永山さんは北朝鮮に帰国したまま消息を絶った。

 死去した早坂暁さん

 死去した早坂暁さん

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by daisukepro | 2017-12-17 15:31 | サヨナラ

原寿雄さんの死を悼みながら 17/12/9

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

原寿雄さんの死を悼みながら 17/12/9

明日へのうたより転載

 元共同通信の原寿雄さんが92歳で亡くなった。『赤旗』が7日付の社会面(死亡欄)で報じ、9日付の「潮流」で追悼の言葉を贈っている。「亡くなるまで、ジャーナリズムのあり方や表現の自由の大切さを語っていた原さん。その熱いメッセージから学んだ記者は多い。ジャーナリストは自由の消費者ではない。自由の生産者、構築者たれ」。原さんが労働運動家としても優れていたのはあまり知られていない。

 おれは茨城の高校を出て、1956年に毎日新聞東京本社印刷局に入社した。1年の試用期間を過ぎて組合員になるとすぐ職場新聞を発行。それが認められて58年に青年部書記、59年には新聞労連東京地連青婦協議長に選出された。その時新聞労連副委員長・東京地連委員長をしていたのが原寿雄さんだ。

 60年安保最盛期には新聞労連も連日500~1000人の動員をしたが、始めの頃はちょぼちょぼだった。原委員長の後に労連旗を持ったおれしかいないなんてこともあった。「なんだブル新しっかりしろ」などと野次られたりした。それでも原さんは毅然として前を向いて行進していた。

 60年は安保とともに三池闘争もたたかわれた。原さんは総評の常駐オルグとして現地闘争本部に派遣された。総評は5月27日から30日まで全国からオルグ団を結集、東京地連も8人を現地に送り込んだ。おれはその一員だったが、ホッパー前でデモを指揮する原委員長を誇らしく思ったものだ。

 安保も三池もたたかいが終結した61年7月、新聞労連東京地連定期総会でおれは書記長になった。委員長は4期目の原さん。当時新聞労連書記局は京橋にあった。非専従書記長のおれは有楽町駅前の毎日新聞社から歩いて通った。原さんは労連副委員長の仕事が主なので地連関係はおれに任された形だった。

 役選の難航のため開催の遅れた62年11月の労連大会で原さんは専従を降り共同通信の職場に戻った。同時に東京地連委員長も退任したのだが、最後の議案書づくりでアクシデントがあった。原さんとおれで分担してつくった議案書の原稿を印刷屋が紛失してしまったというのだ。

 さあ大変。今日中に原稿を書かないと定期総会に間に合わない。原さんは原稿用紙を広げて資料も見ずに書き出した。その早いこと。最初のより幾分分量は減ったが一応形を成して印刷屋に渡した。おれにとっては懐かしい思い出である。――数年新聞労連主催で前原さんの講演会があって、終わってから挨拶したらちゃんとおれを覚えていてくれた。嬉しかった。原さんのご冥福をお祈りします。

 

 


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by daisukepro | 2017-12-12 12:06 | サヨナラ

サヨナラ  「バラバラマンこと斉藤晴彦 」

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サヨナラ 斉藤晴彦

読売新聞の訃報で斉藤晴彦さんの死去を知った。
死を悼み謹んで哀悼の意を表します。

30代の頃、新宿、一緒に夜の街を徘徊したものだ。
カヌー、テアトロ、ユニコン、カプリコンも今はない。
当時、テレビ東京は東京12チャンネルと呼ばれていた。番組名はプレーガール、題名は「女殺し昭和元禄」(1968年)でテロリスト青年の役でゲスト出演していただいたのが最初かもしれない。ゲスト主演は伴淳三郎、殺人教室の校長で若いテロリストを育成している。  そこの卒業生の一人が斉藤さんの役どころである。
 
 新宿駅西口に地上から地下広場に螺旋状に通じる自動車用のロータリーが完成したばかり、珍しかった。地下広場にはホームレスが棲みつき、夕方にはどこからともなく青年たちが集まってきてベトナム反戦フォークを合唱した。野次馬と一緒になってたちまち地下広場はいっぱいになった。
 京王デパート横に南口に通じる路地があり、一人の青年が「グットバイ」とタイルばりの地面に落書きをするところからトップシーンが始まる。コウモリ傘を肩にロータリーを逆行して地下広場へ鼻で歌いながら降りて行く。
 青年は電話ボックスの穴から傘を突き刺し、殺す。誰でもよかった。穴から引き抜くと傘はズバッと開いた。

 コウモリ傘のイメージはフジテレビ、朝9時番組の元祖「ロボット8ちゃん」のバラバラマンのキャラクターに引き継いだ。ロボットが町中に住み、人間か、ロボットかどうか区別できないという、近未来の設定なので、悪いロボットから人間を守るためにロボットを規制する法律も出来るだろう。そうすると法律違反をするロボとも出てくる。ロボット管理局ができる。そこの役人の役を斉藤さんのために考えた。斉藤ロボット取締官はことのほかロボット8ちゃんがお嫌い。追いかけ回しバラバラにして鉄くずにしたくてたまらない。それを8ちゃんを愛するこども達が防衛する、日本的トムとジェリー
、これでこの企画のコンセプトはいけると思った。
ところがである、作品ができあがると内部から批判がわき起こった。監督である私を排除して、密室協議が行われた。

 報告によると番組の神聖な商品である8ちゃんをバラバラにして壊すなどという発想はけしからんというクレームだったようだ。監督を排除することで一件落着、幸いにもバラバラマンは救われた。エンディングに使用された天才詩人浦沢義雄、天才作曲家小林亜星のマカロニウエスタン風、名曲は生き残った。
しかし、こどもたちがバラバラマンを罠にかけて岸壁から海に突き落とすシーンが追加撮影されていたことで監督生命が首の皮一枚で救われたという人がいたので、非難の矛先は間違えなく私であった。

 そのシーンを撮影する日、バラバラマンの衣装に身を固めた斉藤さんが現場にやってきた。「斉藤さん、海に飛びこんでもらいますがいいですか」ときりだした。
斉藤さんは話を事前に聞いていたらしく、一瞬ためらったがそういわれるとやるしかないですとこたえたので残酷にも撮影は直ちに開始された。
 なので、追悼文だというのに不適当な話を長々として、何が言いたいかというと私の監督生命を斉藤泰彦という役者が救ってくれたことである。
 番組が放送されると前の番組の視聴率1、4%から2、4%に倍増、その後、視聴率は順調に伸びた。リサーチによればバラバラマンが子供らの一番人気であった。

 私はこの1話限りでロボット8ちゃんの監督をやることはなかった。このシリーズが少年探偵もの、美少女シリーズになってから企画を7年間担当した。斉藤さんはメジャーの役者となり、黒テントの演劇活動を支えてきた。視聴者とお客様は私たちの神様です。
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by daisukepro | 2014-06-29 19:41 | サヨナラ

サヨナラ 瀬尾脩

 弔報ファックスが入った。瀬尾カメラマンの葬儀日程の通知である。つくば市にあるメモリアルホールで今晩、通夜が行われる。いつ亡くなられたか記載はない。火葬である。瀬尾夫人の葬儀は土葬であった。 喪主は瀬尾宗臣とある。長男の息子さんであろう。『コバさん,せがれがオートバイを買ってくれと言うんだ。仕方ないので「よし分かった棺桶もついでに買ってやる。それでもいいかって言ってやった」。
あぐらをかいて、酒をくらう様は豪快であった。突き出た腹は布袋のようだ。押し入れから小型の35ミリカメラを腹にのせるように抱え出て来たりするカメラマンであった。
 宇宙刑事パイロット版の制作を一緒にやった。まだCG技術はなく、合成は東通のECG、現像はアメリカに送った。テレビ番組がテレビ映画と呼んでいた時代、撮影はビデオではなくフィルムが使われた。 打合せをするわけでもなく最初のポジションが決まると、次のポジションに常にカメラがあった。被写体との空間を意識しながら演出することができる、今思い返すと幸せな時間であった。
 やがて、フィルムからテープに、映画は番組となり、映画監督は番組ディレクターになり,シナリオは契約書になった。
83歳、瀬尾カメラマンもこの世を去り、私も年老いた。長い労働争議があったが、職場を守り抜いた。よき時間をともに働いたことを誇りに思う。サヨナラ、偉大なカメラマン、瀬尾大人 謹んで哀悼の意を表します。(通知を送ってくれた人、ありがとう。葬儀に出られず残念無念)
2014年5月18日
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by daisukepro | 2014-05-18 16:49 | サヨナラ

サヨナラ 木村京太郎

さよなら京太郎

去る、9月13日、読売広告のプロデューサー木村京太郎さんのお別れ会が赤坂のホテルで行われ、約250名が参列した。行年58歳の若さだった。既に読売広告社は退職していたが東映アニメとピエロ、読売広告の3社合同で開かれた。
式次第は読経の代わりにジャズ生演奏、献花、会食、ビデオ上映、特に親しかった友人たちの言葉、親族のあいさつでお別れ会は幕を下ろし、参列者は三々五々赤坂の街に消えて行った。

 c0013092_1743243.jpg私はフジテレビの日曜朝9時の児童番組で7年間、東映企画者として京太郎さんと一緒に仕事をした。いわゆる、アニメではない実写の子ども番組である。広告代理店の仕事はテレビ局、製作会社、スポンサーの間で共同作業が円滑にすすめられるように気配りをしなければならず、それだけでも細かい神経と図太い精神の持ち合わせていなければ勤まらない。それプラス、企画意図を実現するための発想やキャラクターイメージを具体化しなければならない。京太郎さんはこれらの仕事を軽やかにこなして行くのである。それに、今風に言えばイケメンだったので、女性が放っておかなかった。
当時、映画界は児童を対象とした番組を「ジャリ番(組)」と業界用語で呼んでいた。その番組に携わるスタッフは劇場用映画のスタッフから差別扱いされていた。そもそも、映画界はテレビそのものを電気紙芝居呼ばわりして、映画5社協定を結び、自社俳優のテレビ出演を規制していた。その時代の名残である。「ジャリ番」はローバジェットで労働条件が悪いだけでなく、30分単位で制作されるため30分もの、60分のテレビ番組、これを一時間もの、「大人番」と呼びそれからもさらに差別されていた。それだけではない。この種類の番組には常識のようなもの、大人たちの目線で見て、子どもはこうあらねばならないという保守的なルールが存在していたのである。例えば、ヒローはタバコをすわない、立ち小便はしないなどである。

幸いなことに各社から集められた企画者集団は企業の立場を超えて、すぐに仲良くなった。神々の思し召しなのか、偶然なのかは分からない。もっとも、これは私ひとりの勝手な思い過ごしかもしれないが、類は友を呼ぶということわざを思い出す。わたしたちには共通の敵がいた。私たちは会ってから三日も経たずに、このコンサバティブな掟を打破して何か分からないが新しいことをやろう、それを今時の子ども達は待っているんだという勝手な思いを共有することになった。けれども、この共有する価値観に綱領や規約のようなものはなく、話し合う中で自然と同じ方向を向くという具合に仕事をした。なので、これを規制する側に取っては難しいことだったのか、視聴率が順調に伸びるに従って映画企業の管理職から放任される結果となった。しかし、これは言うは易く、幾重にも張り巡らされた関門を通過しなければ実現しないのだ。お庭番のような方も存在していたようであった。あるゴールデンタイムの番組では現場でプロデューサーを批判しようものなら、翌日はそのスタッフが呼び出されるということが続いたので、ガセネタを流して犯人をつきとめたりしたという話が伝わってきたりした。笑えない職場だったのである。この奇妙な職場が映画会社に存在した経緯は別の機会にするが、いずれは書くことになるだろう。

当時、情熱を燃やしてジャリ番組の制作に取り組んだ仲間は、あるものは社長になり、会長になり、またあるものは常務取締役になり、さらに顧問などになった。サラリーマンとしては出世コースを歩んできた人ばかりである。
テレビ局の取締役は京太郎さんが提出した企画書とメモ書きを持参してくれた。驚くなかれ、それは数十年前、この番組の最初の企画書であった。お別れ会では回顧ビデオが上映されたが、そこで現テレビ局の常務取締役は京太郎さんと当時の番組に登場して仲良くジュエットする場面が映し出された。あいさつで「あのころの現場は活気があった。いまは情熱があまり感じられない。現場に活気と情熱を取り戻したい」と話した。番組制作の要は脚本であるが、浦沢義雄という天才ライターは忘れられない。詩人だが、脚本の構成力は抜群であった。いまでも活躍していると思う。彼の発案だと思うが「人生は2度ない3度ある」というキャッチフレーズがあった。京太郎さんもこの言葉を好んでいたという。忘れがたい京太郎さん自身の言葉としては「時代から感性がずれたら、いつでもこの仕事を辞める」「キャラクターは死なない」である。

喪主の久美子さんから参加者には音楽CDがプレゼントされた。「チェットベーカー」の物悲しいトランペットが流れてきた。なかでも、彼は「マイファニーバレンタイン」を愛していたという。私たちの思い出となった職場は大泉の東映東京撮影所の外れにあったが、私たちが退職後、建物は解体され、いまでは映画館になっている。
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by daisukepro | 2010-11-18 17:05 | サヨナラ