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戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(73) 18/04/13

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(73) 18/04/13

明日へのうたより転載

 居留民会関係者の中では、日本への引き揚げが現実味を帯びて語られ準備に熱が入ってきた。しかし東京陵朝日町の戸塚家や小林家のような一般家庭にはまだその熱が伝わってこない。1946年4月、本来なら新学期の始まりなのだが学校からの通知はない。国民学校2年の8月に敗戦になって以来、筆者はまともな教育を受けずにきた。その間学校再開の計画は立てられたようだが、その都度いろんな支障が出て取り止めになった。寺子屋式の小規模塾が行われていたようだが筆者の記憶にはない。

 2年生の担任はあの8・25騒動の時、遼陽からの電話を取り次いだ鈴木久子先生だった。その鈴木先生から突然手紙をもらったことがある。戦後30年した1975年のことである。「私は貴男の事よく覚えて居ります。日曜日と気がつかず、ランドセルを背負って登校した貴男、ちょうど私が日直で、教室に居て2人で大笑いしましたっけ・・・。頭を掻きかき又帰っていった貴男。一寸そそっかしいところがありましたね」(そそっかしいのは私の素質で80歳になっても治らない)。この日曜登校の話は敗戦前のことで、夏休みが終わった2学期からはそれこそ毎日が日曜日のようなものだった気がする。

 3月21日に出産した母は、三女悦子を疫痢で死なせた痛みからなかなか脱け出せない。父は怪我の後遺症で通常勤務ができない。わが家は小林家をはじめ町内の人たちの助けを借りてやっと春を迎えることができたのである。4月の末頃になると庶民の官舎にも引き揚げの情報が逐一伝えられるようになった。

 遼陽市日僑善後連絡処桜ヶ丘支部から各家庭に「帰国便覧」が配布された。「この度突然日管(満州日 僑俘管理処)の方から帰還命令の内命が下ってきましたが、かねて覚悟の皆様十分用意も整った事と思いますが、尚日数もあることですから慌てず、騒がず、沈着に事を処し民会の指示の儘に遺漏のない準備をなし、全員揃って立派な団結を保って帰国の途に就きたいと思います」

 そして帰国までの心構えを「終戦以来夢にまで見た祖国日本への帰還が実現する事になりました。もとよりこの帰国は中国当局を始め連合国の好意によるものでありまして、私ども日僑は良く自己の立場を認識し、祖国への長い旅路を恙なく一糸乱れぬ統制の下に終始しなければなりません。そして平和な日本国民として、民主日本再建の有力な一分子として、又中日合作の先駆者になる覚悟と努力が必要である事を良く胸に刻んで、祖国への旅に住みなれた遼陽、幾多の思い出を残した桜ヶ丘を出発しましょう」と説いた。

 「帰国便覧」はさらに持ち帰り金品についての注意事項を記す。
 ①現金と証券=出発に際して年齢の区別なく1人1500円を携行する。このうち500円は出航地コロ島までの費用とし、残余金は難民救済資金として寄付する。日本へは1000円のみ。郵便貯金、戦時公債などの証券類は管理処で預かり、帰国後返還する予定。
 ②服装=行動に便利なものを選び、婦人はなるべくモンペを穿き、華美な服装、厚化粧はしない。
 ③携行品=背負ったり手に提げられる範囲とする。薬品、燐寸、油類、貴金属、カメラ、地図、ラジオ、カミソリ、ナイフ、多数で撮った記念写真、政治的書籍などは没収される。
 


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by daisukepro | 2018-04-18 19:27 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(72) 18/04/12

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(72) 18/04/12

明日へのうたより転載

 つい最近の話だが、今年3月24日、31日の2回に分けてNHKがドラマ「どこにもない国」を放映した。原案:ポール・邦昭丸山、作:大森寿美男、主演:内野聖陽、木村佳乃。満州・鞍山市の昭和製鋼所社員だった丸山邦雄が、満州全域で建設会社・新甫組を営む新甫八朗、新甫組の社員武蔵正道と組んで150万在満邦人の日本引き揚げに奔走する内容だ。敗戦後の飢えと略奪に喘ぐ人々の姿が生々しい。

 当時外相の吉田茂やGHQ総司令官のマッカーサー元帥に直接会って、早期引き揚げを懇請する。ラジオを通じたり決起集会を開いたりして世論にも働きかけた。これが功を奏して1946年3月16日、GHQは「引き揚げに関する基本指令」を発し、日本政府に引き揚げ促進を指示した。そして46年4月、ついに引き揚げ第一船がコロ島から出航する日がきた。

 そんな話が進んでいるとは旧火工廠の人々は全く知らなかった。しかし八路軍が撤退し、国民政府が駐留するようになった頃から引き揚げの可能性について何となく空気が変わって来たのを感じてはいた。空気の変化は瀋陽(旧奉天)や遼陽からもたらされた。瀋陽に東北日僑俘管理処が設けられ、その下部組織の瀋陽日僑善後連絡処が満州全体の日本人遣送事務を統一して行うことになった。

 さらに遼陽では敗戦直後に発足した遼陽日本人居留民会が遣送事業向けに改組され、遼陽日僑善後連絡処となる。連絡処主任には遼陽居留民会会長として信望の厚かった野木善保氏が任命された。遼陽連絡処は業務の全てを遣送事務一本に絞り、国民政府当局との具体的な折衝を開始した。

 45年8月15日の日本敗戦時海外には、軍人、軍属353万人、一般人300万人の計653万人が居留していたといわれている。これは当時の日本人口の1割に相当する。これらの在外邦人は戦争の過程において進駐あるいは居住したのだから、居住地が日本領土でなくなったからには即時全員引き揚げさせなければならない。ところが日本政府は無責任としか言いようのない態度に出た。

 日本はポツダム宣言を受諾して連合軍に無条件降伏をした。そのポツダム宣言第5項の(5)には「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且つ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」との明記がある。ところが在外一般人についての規定はない。それをいいことにして日本政府は外務省を通じ、8月14日付で在外公館あてに「居留民はできる限り現地に定着させるべし」との指示を発する(「三カ国宣言(ポツダム宣言)受諾に関する訓電」)。まったく無責任な指示であり、棄民宣言そのものである。

 日本政府のこのような姿勢が満州からの引き揚げを遅らせたことは間違いない。150万人むを超える在満一般邦人のうち、日本への引き揚げが叶わず異国で亡くなった人は23万5000人(うち満蒙開拓団8万人)、残留孤児・残留婦人2万人といわれる。その原因をつくった日本政府の責任は重い。

 


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by daisukepro | 2018-04-18 19:21 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(71) 18/04/11

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(71) 18/04/11

明日へのうたより転載

5 引き揚げ=遣返
 「引き揚げ」は中国語では「遣返」である。元のところへ戻すという意味だ。日本人居留民は「日僑」と呼ばれた。他国に仮住まいする日本人というわけだ。

 山海関方面から進攻した国民政府軍が錦州を経て奉天に向かう。奉天で南北に分かれて南を目指す部隊が遼陽に到着したのが3月20日。その日のうちに旧火工廠にも進駐してきた。八路軍の廠長秘書だった松野徹は国府軍の進駐についてこんな感想を述べている。

 《3月18日、八路軍が姿を消したと思ったらたちまち国府軍がやってきた。何のことはない、同じ軍隊の第一師団が第二師団と交代したようなもの。長い間敵対してきた国民党と共産党が遼陽郊外で2、3発撃ちあっただけですんなり入れ替わった。我々には想像ができない交代劇だ》。

 松野が数日ぼんやり過ごしていると、遼陽駐屯国民党本部から名指しで出頭命令がきた。八路軍時代に酷い目に遭った松野は、今度は表に出ないで潜んでいようと思ったのだが隠れきれない。責任者の吹野信平ら数人の居留民会幹部の一員として旧満州国政府の建てた遼陽県公舎に出向いた。

 公舎には金ぴかの肩章をつけた将軍が待っていて笑顔で応対。吹野たち一行に対して「君たちの工廠は今後、我が軍の東北火薬廠として再開する。ぜひ君たちに協力してもらいたい」と懇請し、工場長だの技術課長だのと書いて印を捺した立派な紙を渡された。松野も火薬廠庶務課長の辞令を受けた。蒋介石に率いられた国民政府は、日本が進出した満州南部の工業地帯をそのまま残して建国の基礎にしようと考えた。そのためには日本人技術者に残留してもらわなければならない。それを「留用」と称した。

 金ぴか将軍の意図は、吹野や松野に留用者として残れということだ。松野たちは《どうせ日本は負けたんだ。内地はアメリカに占領されて彼らの言うなりになっていることだろう。満州、朝鮮、台湾、樺太より引き揚げさせられた日本人は、内地の四つの島に押し込められて中々生活も難しかろう。こうして留用されるのも後に再び中国に進出するための布石となるのではないか》と話し合った。

 そして《我々はその捨て石になろうではないか。国民党のために働こう》との決意に達した。留用者は吹野、松野らの幹部だけに限らず、技術者、医療関係者など数百人規模になる。それらの人たちのその後については別項で詳述することにする。ここでは筆者一家を含めた一般居留民の引き揚げに話を戻す。

 


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by daisukepro | 2018-04-18 19:19 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(70) 18/04/10 明日へのうたより転載

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(70) 18/04/10

明日へのうたより転載

 銃殺された浜本宗三はどんな人物だったのか。浜本は陸軍技術大尉で火工廠では製造科長の役にあった。1914年(大正3年)5月14日生まれで横浜の出身、享年31歳、家族は夫人と2人の男の子。「関東軍火工廠史」に寄せられた証言をもとに人物像に迫ってみた。

 西村秀夫の手記。「浜本さんは横浜の石屋の若旦那だった。若い衆と遊んだ話、喧嘩の話、麻雀が好き、バスケットの選手でもあった。バスケットボールを上から掴んで持ち上げることのできる巨漢。野球もやった。横浜高等工業学校では遊び過ぎて3月に卒業できず、追試で6月にやっと卒業。しかし陸軍に応召し、火工廠へ配属後は立派な技術者になった。視野の広い浜本さんは3年とたたぬうちに酸製造工程の権威と言われた。石屋の親分の血を引いただけに何事にも親分肌で形式的なことが嫌い、一見反軍人的でもあった。工場で働く軍属、徴用工、満人の工員にも分け隔てなく接した」。

 鈴木弓俊は敗戦の年の初冬、浜本に中国観を訊いたことがある。浜本は「国共内戦で当面国民政府が勝つかも知れぬが、将来の中国の主人は共産党になるに違いない。しかし我々は今中共に協力するわけにはいかない。現中国の当主は国民政府なのだ。自分は唯物史観の本を読み、共産主義の勉強もしたが、人間性を否定している点で同調できない」と述懐した。実際に浜本の書斎には唯物史観の書籍があった。

 あの8.25の混乱の時、身を呈してソ連軍司令部に乗り込みシベリア連行を取り止めさせた。結果5000人の命が救われる。一時浜本は多大な信頼を集めた。しかし八路軍の支配が長引くにつれ、浜本をファシストだという内部からの陰口が強まる。ファシストは民主主義の敵だという声がそれまでの仲間内からも聞かれるようになった。当然八路軍の標的になっていく。

 鈴木弓俊は浜本一家が住んでいた白百合寮の風呂に、浜本と2人の坊やと入ったことがある。鈴木は「(あなたを陥れようという連中は)誠意の通じない相手だ。今はいったん身を引いて彼らに任せたらどうか。どうせ手に負えなくなって投げ出すに決まっている。その時復帰すればいいのではないか。このままではあなたは殺されるかも知れない。奥さんや子どもさんのためにも身の安全が第一だ」と勧めた。

 これに対して浜本は「5000人のためを思えば手を引くわけには行かぬ。5000人が生き延びて祖国に帰るためなら、自分の命や家族のことは問題ではない」と言下に淡々と答えた。

 吹野信平を柱とする浜本宗三、川原鳳策、加藤治久、加々路仁、勝野六郎らの将校グループは、日本人居留民の安全、祖国引き揚げを目的としていたが、同時に戦後の中国がアジアの巨大民族として大きく発展することも望んでいた。吹野が唱えた大陸蟠きょ説は、中国に日本がやったことの過去を贖罪し、日本が新中国建設に役立ちたいという理想だった。浜本たちはその実現へ向けて熱い議論をたたかわせた。

 反面吹野たちの指導を心よからず思う人たちもいた。早く祖国引き揚げを実現するためには国府軍に頼るのが一番という考えを主張した。主張しただけでなく、国府軍に内通し、八路軍を掃討することが謀られた。吹野たちの指導部と国府内通派の集団とで対立が深まり、時には暴力沙汰になることもあった。

 この日本人内部の亀裂に乗じて国府軍側からの働きかけが強まる。八路軍はますます疑心暗鬼になり、反共策動の根を断ち切るべく弾圧を強めた。しかも国府軍の進攻が迫ってくる。そこで彼らのとった手段が強制連行と銃殺だった。――浜本の眉間は真正面から銃弾が貫通していた。
 

 


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by daisukepro | 2018-04-18 17:52 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(69) 18/04/05

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(69) 18/04/05

明日へのうたより転載

 吹野信平のもとで川原鳳策とともに旧火工廠のリーダー的役割を果たしていた浜本宗三が2月上旬、八路軍に拉致された。国民政府軍への内通容疑だった。

 浜本たちは日本居留民の安全、確実に祖国に帰還させることを期して会議を開いていた。佐野肇はある夜の会議に出席を求められた。部屋に入ると、吹野、川原、浜本ら十数人の幹部が顔を揃えていた。そのうちの1人から居留民内部の動向が報告され、内部崩壊を防ぐためそれぞれの持ち場で教育宣伝活動を行うことが確認された。また正確な情報の収集の必要性から新京、奉天、大連に2人組の調査団派遣も決まった。

 佐野は浅野中尉と組んで奉天に行き、国府軍幹部に会うという任務を与えられた。年明けから国共内戦が激化し、現在火工廠を支配している八路軍がそのまま支配を続けられるかどうか危ぶまれる。国府軍の支配に変わることも想定して伝手をつくっておいた方がいいのではないか。浜本たちはそのように考えた。国府軍との内密の接触は佐野たちと別のところでも試みられた。その際「お墨付き」と称される文書を国府軍側から渡されることがあり浜本はそれを書斎の本の間に挟んで保存していた。

 八路軍に拉致された浜本宗三の社宅が徹底的な家宅捜索に遭った。そして書斎から「お墨付き」が押収されたのである。万事警戒怠りない浜本にしては軽率だったが、八路軍は端から「お墨付き」の存在を知っていた気配がある。例の十数人の会議が秘密を保たれていたものかどうか。誰かが八路軍に密告したのではないか。疑えば疑えるが、事後になっては真相を究明する手立てはない。

 遼陽の八路軍施設に留置された浜本だが、取り調べはほとんど行われなかった。八路軍の反共分子に対する扱いは、取り調べもせず長期間留置場に放置し、本人が精神的に困憊するのを待つ。もしそれでも改心が認められなければ罪状を並べて処刑する。清水隊の佐藤少尉や少年義勇軍の神田中隊長はそうやって処刑された。浜本宗三も3月18日、太子河の川原で銃殺され死体は遺棄された。

 浜本の遺体のそばに唐紙大の立札があり、そこに「浜本大尉は強力な火薬を製造し多数同胞を殺傷した」と罪状が書かれていた。浜本は技術将校であり火工廠の指導者の1人だった。太子河の川原には浜本のほかに遺体が2体あり、1人は板橋柳子少尉、もう1人は堀内義雄青年だった。

 板橋少尉は吹野信平や川原鳳策とともに拘禁され、吹野たちが釈放された後も留置されたままだった。東京陵の官舎で隣り合わせの米田穣賢は《板橋さんは中支戦線で負傷、一度帰還したが再召集で我々の918部隊に配属。碁が好きでそれも徹底的な喧嘩碁。顔に大きな傷跡があった。それが八路軍に嫌われたか、中支戦線の勇士に対する報復だったのか。誠にお気の毒なことだった》と述懐している。板橋少尉の罪状は「火工廠において同胞労働者を虐待した」というものだが、具体的には何ら指摘がない。

 堀内青年も吹野、川原らとともに遼陽の収容所に入れられたが、「国民党に内通した」と罪を認めて翌日釈放された。その足で新妻のいる東京陵に戻ったが、日系八路の密告で再び逮捕。今度は釈放されずに留置が続き、ついに銃殺された。堀内青年が国民党員であったことは間違いないということだ。
 

 


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by daisukepro | 2018-04-05 20:40 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(68) 18/04/02 明日へのうたより転載

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(68) 18/04/02

明日へのうたより転載

 軍医の勝野六郎は3月5日、銃剣で武装した八路軍兵士に連行され、暗い部屋に監禁された。取り調べはほとんどない。3日後、連行についての何の言い訳もなくそのまま釈放される。ところが10日ほどしたら今度は便衣隊風の男に呼びだされた。夜遅いのに目隠しをされる。30分も歩いて線路のところに着いたら暗闇の中で銃声が一発。後で時間的に合わせて考えると清水隊の佐藤少尉の銃殺時間に一致する。八路軍兵士は「嘘を言うとお前もああなるのだよ」と日本語で勝野を脅した。

 目隠しは取られたが針金で後ろ手に縛られた。夜半なのに工事場の周辺で日本人が穴を掘っていた。何故穴を掘るのか質問したが誰も答えない。八路軍兵士は「余計な口は聞くな」と凄んで、病院近くの空いている官舎に引っ張り込んだ。そこには松岡道夫中尉がいたが話はできない。やがて2人とも宙吊りにされた。松岡は背が高いので爪先が床についたが勝野は宙に浮いた。

 縛られた手が麻痺し意識も霞んできた。何やら叫んだつもりだが声になったかどうか分からない。突然ガタンと床に落とされた。しばらくして意識が戻ってくる。小便を垂れ流したらしくズボンの前が冷たかった。意識をなくしている間に歩哨が変わったらしい。よく見ると以前傷の手当てをしてやった兵士だ。向こうも気がついて「酷いことをしたようですが、お気の毒でした」と一応謝ったが、「しかし何か知っていることがあったら早く言ってしまった方がいいですよ」と懐柔にかかる。

 訊問の内容はかなり多岐に亘っていた。①銀塊の隠匿、②病院の井戸から発見された機関銃のこと、③敗戦時の青酸カリの配布、④薬品隠匿の嫌疑、⑤ソ連兵と親密にしていたことへの反感、⑥八路軍への協力欠如、等である。勝野は「私は何も知らないから言うことはないよ」と答えてその後は黙った。

 縛りは解かれなかったが宙吊りはなくなった。松岡と2人並んで話もできる。手の痛みを堪えながらお互いに励まし合った。しばらくして何も言わずに釈放されたが、病院の薬棚からブドウ糖、リンゲル、サルバルサンなど貴重な薬品が持ち去られていた。国府軍の進攻に抵抗できず火工廠から撤退していったのである。

 八路軍は撤退したが、顔見知りの兵士がこっそり戻ってきて勝野に「往診鞄と持てるだけの薬品を持って我々に同行するように」と命じた。断りたかったが強制的に馬車に乗せられた。遼陽の街中で食糧を調達した後、太子河を渡って名も知れぬ部落の民家に落ち着いた。国府軍との戦闘の跡が柱や壁に生々しい。勝野はそこで八路軍兵士の銃創の手当てをさせられる。待遇はよかったし、態度も優しかった。

 ある日八路軍幹部が5歳の娘を連れてきて「肺炎だが手当をしてほしい」と頭を下げた。この幹部兵士は以前勝野に広島と長崎に落とされた原子爆弾の話をしてくれたことがある。勝野は1晩徹夜して、トリアン注射や糖液の点滴の治療をした。娘の高熱は収まる。それをきっかけに勝野は釈放され、単身東京陵に帰りついた。


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by daisukepro | 2018-04-05 20:37 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(67) 18/03/30 明日へのうたより転載

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(67) 18/03/30

明日へのうたより転載

 敗戦時火工廠には918部隊のほかに清水中尉を隊長とする300人の中隊が駐屯していた。隊員中10人が在満現地召集。その1人朝枝周爾の手記。

 《8月25日、あの忌まわしい夜。隊員の1人が東京陵病院に入院していました。清水隊長から「本隊は火工廠の集団自決となればそれに加わらずに出発し、ソ連軍の指示に従って集合場所の海城へ向かう。入院中の隊員は重態であり、行動を共にできないので、出発の合図があったら銃殺して本隊に合流せよ」と命令されました。まったく参りましたが、浜本大尉らの働きで自爆が回避されほっとしました》。

 清水隊の幹部は清水中尉以下、隊付少尉の佐藤利博、曹長1人、班長を任務とする伍長が4人、兵長が2人であった。佐藤少尉は大正時代の志願兵で、軍隊の経験のないまま除隊、その後は東京王子の兵器廠に勤務していた。45年2月に49歳で召集され渡満、火工廠駐屯の清水隊に配属される。剣道の達人で、軍隊の規律には無頓着な好々爺として兵たちに親しまれていた。

 46年3月初め、佐藤少尉は武器隠匿の嫌疑で八路軍に連行され過酷な訊問(拷問)を受ける。最後には精神に異常をきたすようになったらしい。

 3月14日ないし15日の正午過ぎ、唐戸屯梅園町山本区の石原二三区長は八路軍兵士の呼び出しを受けて山本区の西広場に向かった。広場には1本の柱が立っていて清水隊の佐藤少尉が後ろ手に縛られている。10人ほどの兵士に将校がなにやら号令。兵士たちは銃を構え、30mくらい離れた位置から発砲した。遺体はその場で引き渡され、太子川の河原で荼毘に付された。石原区長は遺骨を引き取り、加藤治久、辻薦らと通夜を営んだ。何故か2人の日系八路も加わった。

 銃器隠匿の容疑で恐怖の取り調べを受けた木山敏隆の手記。《鉄と称する八路軍政治部員の尋問は峻烈を極めた。彼らは通化事件の再発を恐れていたものと思われる。長時間の取り調べの最後で「お前は銃殺だ」と宣告された。執行官らしい兵士がモーゼル銃で背を小突く。雪の降る深夜約30分、戸外を引きまわされた。無実で殺されるのかと思うと無念さでいっぱい。家族のこと郷里のこと等頭を去来する。

 今撃たれるか、もう撃つのか、緊迫した心理は説明不可能だ。恐怖の行進はぐるっと回って拘禁されていた建物に戻る。そして再び拘禁。芝居だったのか。しばらくして再び呼び出される。取調室に入ると、何とそこに浅野中尉、江島朝乃さんがいる。政治部員の鉄が入ってきて「無罪釈放だ」と嫌みたっぷりに言う。午前5時頃箱根峠を越えて東京陵へ。東京陵の官舎街にも雪が積もっていたが、自宅の玄関前はきれいに雪かきしてある。八路軍兵士の出迎え。また拘引かと身構えたが、彼らは各家庭に分宿していた兵士だった。妻も子どもも無事。分宿兵士の軍規は厳正に守られていたそうだ》。


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by daisukepro | 2018-04-03 07:51 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(66) 18/03/27 明日へのうたより転載

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(66) 18/03/27

明日へのうたより転載

 (松野徹のぼやきに対する筆者の感想は歴史的に見ても多分正しいと思う。しかしそう言い切るだけで済ませられるのだろうか。天皇制専制国家によって「王道楽土」「大東亜共栄圏」の思想を幼い頃から頭に叩き込まれ、侵略の片棒を担がされた松野さん、思い通りにいかなくて囚われの身となり命がけでぼやいている松野さん、彼も一種の戦争被害者なのではないだろうか)。

 眠れぬ夜を過ごした松野徹は混濁した頭で3月18日の朝を迎えた。午前8時、西の監房から名前が呼ばれて収容者が一か所に集められている。中国人の名前に混じって川原鳳策、吹野信平、松野徹の名が呼ばれた。他に火工廠関係の何人かも。集合場所に例の青白き一等書記が現れて「お前たちは無罪である。本日釈放する」と宣した。松野は《何が無罪だ。偉そうにしやがって》と文句の一つも言いたかったが、ここは黙って出て行くことにこしたことはない。川原、吹野らと連れだって早々に合作社を後にした。

 兵器隠匿の探査は執拗に続けられた。東京陵第一工場の福田正雄は2月13日、風邪で床についていたところを八路軍によって唐戸屯の司令部に連行される。取り調べは武器隠匿に絞られた。全く預かり知らぬことなので「知らぬ存ぜぬ」て通す。尋問はそれほど厳しくなく、3日間で解放された。

 釈放の翌日、ほっとして家にいると数人の八路軍兵士が土足のまま乱入、銃口に取り囲まれた。今度は遼陽の八路軍本隊まで連れて行かれ、幹部によって手を変え品を変え繰り返し尋問を受けた。何遍訊かれても兵器隠匿なんかしていない。同じ答えの反復に八路軍も手を焼いて雑談に移った。

 3月17日のこと、八路軍の様子がどうもおかしい。朝から右往左往している。どうやら国府軍の進入が切羽詰まってきたらしい。「お前も連れて行く」と言っていたが結局彼らだけで退去していった。残された福田は長靴を穿いてとぼとぼと東京陵まで歩いて帰った。やっと家に帰りつき妻の言うには「福田は銃殺された」との布告が隣組から流され、朝からお悔やみの客が絶えないそうだ。

 敗戦時庶務科文書掛長だった印東和は、当時の林光道部隊長から弾薬庫の鍵に封印するよう命じられた。印東は15センチ角の封印紙をつくり、印東の丸判を捺して鍵穴を塞いだ。その封印が何者かによって破られ、小銃と弾丸が盗まれる事件が起こった。犯人は分からなかったが、この武器盗難を八路軍が知るところとなる。彼らは通化事件の経験から「旧日本軍の反乱」を疑い、厳しい取り調べを始めた。

 3月に入ると火工廠の責任者だった吹野少佐、浜本大尉が拘引され遼陽の八路軍本隊に連れていかれた。次に武器、弾薬保管の直接の担当者だった山田中尉、須藤中尉も逮捕され拷問に匹敵する追及を受けた。3月13日にはついに印東に出頭命令が出る。封印の丸判が何よりの証拠とされた。

 印東は「封印したのは確かに私だが、中に何が入っているかは知らない。第一自分でした封印を自分で破ってそれをそのまま残しておくわけがないではないか」と主張したが理解されない。遂に「白状しなければ明日銃殺するぞ」と脅される始末。印東はたった1枚の封印の祟りに震えあがった。


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by daisukepro | 2018-04-03 07:48 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(65) 18/03/26 明日へのうたより転載

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(65) 18/03/26

明日へのうたより転載

 夜になって20代後半とおぼしき青白い青年が現れた。彼は自らを遼陽駐屯八路軍司令部第一書記と名乗った。「貴殿は松野さんか」と優しい言葉つきだ。「はい松野です」と答えると「貴殿は共産党をどう思うか」といきなり難しい質問をしてくる。松野はどう答えるか迷った。ここはやはり穏やかに出た方がよかろうと思い、「これまで共産党は悪いと教育され、そう思っていました。敗戦後中国共産党の皆さんに接し、いろいろ見聞したので考えが変わりました」と述べた。

 「どう変わったのか」「まだはっきりしません。これから勉強します」「ほう、それでは君は我々の同志だ」と青年は握手を求めた。「そこで君に頼みがある」。《さあ、来たぞ》と松野は身構えた。「火工廠には沢山の武器が隠匿していると聞く。私にその場所を教えてほしい」。松野はまたその話かとうんざりする。何度説明すれば気が済むのだ。武器なんか本当にないのだ。

 しかし松野は一方で《これは真実を分かってもらえるチャンスかも知れない》とも思った。これまでの下っ端役職でなく、今度の第一書記はしかるべき地位の人物らしい。ここは丁寧に説明した方がいいだろう。「我々は戦闘員でなく、単なる火薬製造工場の従業員なのです。火工廠には製品としての爆薬は数十トンありましたが、武器と称するものは工場警備用の小銃140挺だけで、それもすべて貴軍に提出しました」。

 「そんなことはない。われわれはちゃんと調べたのだ。正直に言え」と第一書記の青年はがらりと態度を変えて居丈高になった。「嘘をつくな」「ないものはない」と言い合いになる。第一書記は隣室から体格のいい兵士を呼び「この男を鞭で叩け」と命じた。松野が兵士を見ると向こうもおやっという顔。敗戦前工場で働いていた工員である。兵士はたじろいだ様子。そこで松野が「私たちももう一度武器が隠されていないか調べる。貴方の方でも調べてほしい。もし本当に武器が隠されていたら私を銃殺にしてもよろしい」と頭を下げると、「この男を監房に入れろ」と兵士に命じてさっさと部屋を出て行ってしまった。

 興農合作社の一室での監禁生活が始まった。国府中央軍の捕虜と数人の日本人が同室だった。松野はこんな扱いを受けるのがどうしても納得いかなかった。《武器は本当にないのだ。おれはなにも悪いことはしていない。中国人を殴ったり、私腹を肥やしたりしたこともない。火工廠建設に当たり用地の接収をしたが、立ち退きを余儀なくされた農民の生活を案じ、彼らの要望を取り入れてできるだけの対策を講じた。工場敷地内の居住者の子弟に、寺子屋式ではあるが小学校を建て、先生を1人雇って教育を施した。これに感謝して県知事が礼を言いに来たくらいだ。火工廠敷地内ではあるが当面使用しない土地は、農民に耕作を許した。小屋も建てさせた。収穫物はきちんとした値段で買い取った。だから彼らにとっては嬉しくない火工廠の進出だったかもしれないが、おれ個人としては礼の一つも言ってほしい気持ちだ》。

 この松野のぼやきは火工廠幹部に共通していたと思われる。筆者に言わせればこれこそが「侵略者・支配者の論理」そのもので、21世紀の日本・沖縄でもそのまま通用しているのだ。 


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by daisukepro | 2018-04-03 07:46 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(64) 18/03/25 明日へのうたより転載

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(64) 18/03/25

明日へのうたより転載

 八路軍に収容されていた川原鳳策は日本風旅館から「興農合作社」と看板が掲げられた別の建物に移動させられた。吹野信平と国民党スパイと称する孫某も一緒だ。清水隊の板橋柳子、インテリの竹村一郎はどこへ移されたのか不明である。ここでは収容者は名前でなく番号で呼ばれ、川原は63番だった。

 興農合作社での川原への尋問は思想的な内容に変わった。まず「お前は9.18当時何をしていたのか」と訊かれる。9.18とは1931年9月18日、関東軍が奉天郊外柳条湖付近で満鉄線路を爆破、それを中国軍の仕業だとして満州全域で中国軍攻撃を始めたことを示す。八路軍としてはこの日が中国侵略の起点だと考えられている。川原が親がかりの学生であったと答えたらそれ以上の追及はなかった。

 次に天皇制への姿勢を問われた。「お前たちは何故天皇陛下万歳を唱えて死ねるのか。天皇制がお前たちに何をしてくれるのか」。これには陛下の臣である帝国軍人として川原は精一杯の反論を試みた。すると訊問者は「天皇の名で日本軍は我々同胞の血を啜り肉を喰った」と川原がぞっとするような目で睨んだ。

 いつ果てるとも知れぬ虜囚の日々だったが、3月に入るとだいぶ空気が変化してきた。同部屋の孫某に言わせると「国府中央軍が新京と奉天を取りかえした。もうすぐ遼陽にやってくる」とのこと。そう言えば遠くに聞こえた砲声がだんだん近くなってきた気がする。そして3月中頃のある日、川原は突然「お前は無罪だ」と釈放された。同じ収容所にいた吹野信平、中国人の孫某も一緒だ。途中から収容されていた蘇文廠長の秘書の松野徹も含まれていた。日本人の釈放組は残雪の道を一路東京陵へと急いだ。

 川原や吹野とともに釈放された松野徹の、拘束から釈放までの1カ月は思わぬ展開の連続だった。2月19日昼頃、八路軍政治部長から「今から宿舎の点検をするので同行してほしい」と言われついていった。まず会計の福田少佐の家。出てきた奥さんに断りもせずに土足で上がり込み、押入れから戸棚まで中身をひっくり返して点検する。次に隣の山口少佐の家でも同じような捜査。そしてまた隣家と点検は続く。

 「今日はこれで終わり」と政治部長がさすがに疲れた声で宣言したのは、もう冬の陽が沈む時間だった。松野はその足で唐戸屯の民会役場に寄りそこにいた数人とお茶を飲んだ。「宿舎の点検に立ち会ったけど、嫌な役目だね。不愉快でしたよ」松野はそんな愚痴をこぼした。そこへ自動車が止まる音。「一体なんだろう」。外へ出てみると消防自動車に乗っていた10人ほどの八路軍兵士が松野を取り囲んだ。

 「お前松野だろう。用事があるからこの車に乗れ」と両脇を抱えられて消防車に乗せられた。車はゆっくり走りだした。憮然としていると「心配することないですよ」とはっきりした日本語。振り向くと八路軍の兵服の日本人青年がニタリと笑った。車は遼陽市内に入り、興農合作社と看板を掲げた建物の前に止まる。建物の中に誘導され事務所のような部屋で数時間待機させられた。

 



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by daisukepro | 2018-04-03 07:42 | 爆風