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カテゴリ:爆風( 106 )

爆風6

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(6) 17/10/21

明日へのうたより転載

 満州西部のハイラル方面から進攻したソ連軍は、12日にも新京に達することが想定された。一方蒙古方面からの敵は11日には赤峰を陥れ、錦州に迫りつつある。この勢いでは13日夕刻にも火工廠の前面に出現する可能性があった。火工廠の関東軍918部隊は、通化に異動した総司令部からの命令を受けるべく、再三手を尽くしたが駄目だった。こうなっては林部隊長の権限で作戦を立てるしかない。

 将校たちが召集された会議で示された方針は次のようなものであった。①迫りくる敵にできる限りの損害を与える、②火工廠の施設を一切敵に使わせないため破壊し尽くす、③敵の捕虜になる前に、婦女子を先頭に最後は全員玉砕する。敵にできる限りの損害を与えると言っても、918部隊はそもそも戦闘を目的としていない。武器といえば数丁の機関銃とあとは小銃と軍刀くらいしかない。抵抗はたかが知れている。結局は、工場を破壊し全員玉砕するというだけの絶望を絵に描いたような方針だった。

2、日本敗戦
 8月15日朝、猪野健二雇員、岸田義衛会計科員ら数人は、奉天の様子を探るべくトラックで東京陵を出発した。正午に重大放送があると聞いていたので、途中の煙台という部落に立ち寄り、屯長さんの家でラジオを聞かせてもらった、天皇が日本の敗戦を宣告したことが分かった。悔しいとか悲しいとかいう先に、これからの日本はどうなるのか、自分たちはどうなるのか、が心配だった。とりあえずそのまま奉天に向かったが司令部は空き家同然だった。夕方帰路につき激しくなる風雨の中をトラックを走らせた。

 技術将校の稲月光中尉は8月15日正午、工場の控室で他の将校や技手たちとともにラジオを囲んで「重大放送」を聞いた。初めジージーピーピーと雑音だけだったが、やがて「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という天皇の言葉が聞き取れた。どうやら戦争は負けたらしい。稲月中尉は火工廠の部隊本部へ急いだ。ちょうど本部会議室から林部隊長以下が出てくるところで、どの顔も悄然としていた。稲月中尉はすぐ各工場を回り、敗戦の事実を報せ、軽挙妄動をしないよう注意して歩いた。

 東京陵第一工場では12日から連続3日、徹夜で急造地雷の製造に必死に取り組んでいた。工場責任者の武井覚一技手は15日11時半に、工場事務所のラジオを事務所全体に聞こえるよう調整して玉音放送を待った。事務所には事務員、班長のほか満人たちも集まっていて足の踏み場もない状態。やがて放送が始まり日本の敗戦が明らかになった。

 

 


by daisukepro | 2017-11-12 19:38 | 爆風

爆風5

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(5) 17/10/19

明日へのうたより転載

 朝になりギラギラした太陽が照りつけてくる。貨車なので窓がない。室温はどんどん上り、気分の悪くなる乗客のうめき声がする。病人が出ても手当のしようがない。ただ耐えるのみだ。新京から一昼夜かかって11日の夜10時に奉天に着いた。

 井上技手は奉天で鞍山行きの客車に乗り替えることができた。これで遼陽へは行ける。しかし遼陽に着いても東京陵までの交通手段が不明だ。一つ手前の張台子からなら歩くのが可能だ。そう考えて張台子で下車、漆黒の満人部落に入っていった。小高い山があった。ここで関東軍が抵抗線を引くらしく兵士たちが陣地を構築していた。満人部落では深夜だというのに男たちが何事か話し合っている。そのそばをびくびくしながら通り抜ける。東の空が明るくなる頃やっと東京陵に着きほっと胸を撫で下ろした。

 勤労奉仕学徒(勤奉学徒)として火工廠に派遣されていた奉天工大生の伊藤信は、8月12日、部隊本部前の広場に集合を命じられた。そこで林廠長から「勤奉学徒も部隊とともに行動をとり、最後までソ連軍に抵抗する。各自覚悟を決めよ」と訓示された。

 8月9日朝、東京陵第一工場の西村秀夫中尉が官舎で目を覚ますと近くでサイレンが鳴っている。急いで身支度をして部隊司令部に顔を出した。既に多くの将校がいて、彼らからソ連軍参戦の報を聞かされた。壁に掛けられた満州の大地図には、堤防を突き破った洪水のようなソ連軍の進攻ぶりが矢印で示されていた。国境を固めていたはずの関東軍は無抵抗だったようだ。

 その場で火工廠防衛の作戦会議が始まる。林部隊長から「既に掘られているたこ壺塹壕に潜んで敵戦車を待つ。迫ってきたら爆薬を抱えて突入する。1台でも多くの戦車を破砕し、もし生き残ったら陣地中央の高台に結集して玉砕戦法で戦う」との訓示。西村中尉はこの玉砕戦法に違和感を覚えた。

 西村中尉の妻は間もなく初めての子を出産する。「家族を朝鮮に疎開させる列車が出る」という情報が広がっていた。西村中尉は妻を疎開させることを考えたが《朝鮮までの鉄道はソ連軍の脅威に晒されている、そもそも朝鮮そのものが安全かどうか分からない》と思いなおし、しばらくこちらで様子を見ることにする。同じような迷いを持つ家族が寄り集まってこれからの事態に対処することになった。

 



by daisukepro | 2017-11-12 15:45 | 爆風

爆風4

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(4) 17/10/15

明日へのうたより転載

 関東軍火工廠は全国の造兵廠から転勤者を募った。王子陸軍造兵廠でも募集が行われ、父はそれに応募した。30代半ばで中国大陸へ海を渡るのはそれなりの決断を要したはずだが、多分給料や住宅などの待遇がよかったからだと思われる。1940年に単身で赴任し、その年の12月に二女栄子が生まれるのを待って家族を呼び寄せた。42年に三女悦子が生まれ、45年8月時点で母は3ヵ月の身重だった。

 吉林の満州電化に硝酸工場を建設するため出張していた井上富由技手は、8月9日払暁、部屋の窓が急に明るくなったのに驚いて飛び起きた。とりあえず硝酸工場の建設現場に急ぐ。空から照明弾が落とされているようだ。時折爆発音も聞こえる。アメリカのB29かと思った。照明弾は落下傘に吊り下げられていた。その落下傘が近くに落ち、拾うと粗末な木綿生地にロシア語が。ソ連の空爆だと分かった。

 翌10日、出張目的を終えて遼陽へ帰るため、最寄りの龍胆山という無人駅へ行った。10時頃、定刻遅れの列車がきたので、とりあえず新京へ向かう。途中吉林市内を窓から見たが、爆撃の被害は分からなかった。新京に着いたが、駅員の話ではすべての列車が停まったままで運行の目途は立たないという。仕方がないので、駅を出て関東軍総司令部で様子を聞くことにした。

 しかしどの部屋にも人影はない。たまたま兵器部の部屋を覗くと、火工廠から出向いたきたという柳尚雄中尉がいた。情勢を聞いてみると「戦況はすこぶる悪い。ソ連軍が今日、明日中にも新京に到着するかも知れない。総司令部は昨日通化に向けて出発した。鉄道は全面停止だが、本日10時に軍人、軍属の家族を避難させる列車が動くかも知れない」と的確に答えてくれた。

 この時柳中尉は「自分はしばらくここで様子をみるつもりだ。火工廠東亜寮の自分の部屋に拳銃が置いてある。何かの時に役立たせてほしい」と井上技手に言った。柳中尉は独身で寮住まいだった。井上技手は火工廠に戻ってからも拳銃の件を忘れていた。後にこの拳銃が悲劇を生むことになる。

 司令部を出ると通りは家財を積んだ荷車や馬車で混乱していた。とにかく駅まで歩き、列車の動くのを待つことにする。9時頃、ホームを外れた線路に有蓋貨車が停まった。老人と女子どもを中心にした日本人の集団がが乗っていた。井上技手は無理を言って割りこませてもらう。列車は真っ暗な中をのろのろ走りだした。

 

 


by daisukepro | 2017-11-12 13:02 | 爆風

爆風3

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(3) 17/10/14

明日へのうたより転載

 弥生町、朝日町には火工廠で働く軍属とその家族が住んでいた。陸軍軍属には傭人、雇員、判任官、高等官という階級があった。軍隊でいうと傭人、雇員は上等兵までの兵卒、判任官が軍曹、曹長などの下士官、高等官が少尉以上の将校である。

 関東軍火工廠を管轄するのは918部隊だが、戦闘部隊とは違って一般兵卒はいない。林光道少将(廠長)が部隊長で、将校、下士官が工場各部署の管理運営に当たっていた。工場の生産工程には軍属の技官(高等官)、技手(判任官)が配置され、武器弾薬製造の現場を監督した。工員、事務員、守衛などの一般従業員も軍属(傭人、雇員)で、工場にはそのほか満人傭工と呼ばれる中国人労働者が働いていた。

 官舎はそれぞれの身分、階級によって分けられ、軍属の場合は朝日町が雇員、弥生町が判任官で高等官は曙町となっていた。朝日町は吉野山の麓のなだらかな傾斜地にあった。西側に国民学校と病院、南東の方角に火工廠工場の高い塀が見えた。煉瓦づくりの平屋で、焼打ちや火災の類焼に備えて敷地が広い。玄関の引き戸を開けると靴脱ぎ場と2畳の小上がり、南向きの6畳間が2部屋並び、北側は4畳半の座敷と台所と風呂場。厳寒に耐えられるよう頑丈な二重窓で各部屋に暖房用スチームが通っていた。

 私の一家はこの朝日町の官舎に住んでいた。父は陸軍軍属で身分は雇員、火工廠の職場は庶務科警戒。つまり工場の守衛だった。父戸塚陽太郎は1906年(明治39年)生まれの39歳。出生地は茨城県結城郡菅原村大字大生郷133番地(現常総市大生郷町)。30年(昭和5年)に09年生まれの母せんと結婚して上京、北区王子にあった陸軍造兵廠に就職。33年に姉和子、37年に私章介が生まれた。

 私が生まれた年に日中戦争が始まる。戦争遂行のためには武器弾薬の補給が必須条件だ。大規模な製造工場の建設が急務とされ、陸軍造兵廠直轄工場として関東軍火工廠が開設された。場所は満鉄の遼陽駅から20キロほどのところで、工場、住宅、付属施設などの敷地は約1,000万坪(3,300万㎡)。敷地内に山あり川あり満人部落ありで、満人の耕作地も含まれていた。

 関東軍はこれらの土地を現地農民から有無を言わさず取り上げた。現在の沖縄における米軍基地と同じである。ここに関東軍918部隊の将校、軍属、それらの家族など1万人の日本人町が形成されたのである。 

 


by daisukepro | 2017-11-12 12:44 | 爆風

爆風2

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(2) 17/10/12

明日へのうたより転載

 


新京の関東軍総司令部
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新京は地図上の長春
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8月9日朝、火工廠連絡将校の鈴木弓俊少佐は耐酸材料に関する調査のために撫順にいた。ラジオでソ連参戦を知り、空襲警報の鳴る中駅へ急いだ。火工廠に帰着すると林光道廠長から、命令受領のため新京の関東軍総司令部へ行くよう命じられた。往きの列車は順調で一等車の個室でゆったりできた。


 新京駅に着き総司令部に直行したが、建物は白い煙に覆われていた。庭で大量の書類を燃やしているのだ。部屋には人影がなかった。参謀室の扉を開けると1人の将校がウイスキーを傾けていた。命令受領を求めたが要領を得ない。諦めて総司令部を出て駅に向かった。駅は避難する軍人の家族でごった返している。やっと大連行きの列車に乗ることができ、通常の数倍時間をかけて遼陽に戻った。

 総司令部の模様を林廠長に報告すると、今度は奉天の第三方面軍司令部へ行くよう指示される。鈴木少佐は息つくひまもなく和泉正一中尉とともに奉天へ向かった。司令部では司令官の後宮(うしろく)淳大将に面会できた。鈴木、和泉両名が、火工廠防空強化のため高射砲の増設を具申したが「その余裕はない」と断られた。

 鈴木少佐の報告を聞いた林廠長は自ら状況把握のため奉天に行く決断をした。随員は政井中尉他1名で、矢口清一輸送班長が車を運転した。奉天に着くと司令部は慌ただしい雰囲気に包まれており、書類を焼却している光景も見られた。第三方面軍司令官後宮大将から事情説明があり、「ソ連軍に対して徹底抗戦する。そのために火工廠は対戦車急造爆雷の製造を急ぐこと」との命令を受けた。

 対戦車急造爆雷とは、直径30センチほどの木箱に鋳鉄の椀と黄色薬を装填し、これに柄をつけてソ連軍戦車に投げつける。うまく当たれば戦車を破壊できるというのだが、実行されないうちに日本の敗戦になった。対戦車兵器としてはほかに夕弾式急造地雷もあった。石油缶より一回り大きい爆缶を導火線の遠隔操作で爆発させる。実験では戦車のキャタピラを粉砕し、威力が実証されたがこれも使われなかった。

 ソ連軍は急速度で南下していた。数日で火工廠に達する恐れがある。火工廠部隊司令部は11日、住民に対戦車用たこ壺型塹壕を掘るよう命じた。翌12は晴天の日曜日、弥生町、朝日町の人たちは吉野山の麓に集まり、家族総出で穴掘りにあたった。地盤は固い。粘土質なので水分を含めば柔らかになるのだが、乾燥しているのでスコップもツルハシも受け付けない。大変な苦労をしてやっと塹壕を完成させた。(写真 地図などはダイスケプロが勝手に加えたものです。)


by daisukepro | 2017-11-12 12:33 | 爆風

爆風

連載が待ち遠しい。読みやすくわかりやすい。皆さんにもおそすわけいたします。


各位どの
超豪華コースを借り切ったトランプ=安倍のゴルフ遊びに怒り心頭の皆様、お願いがあります。私のささやかな経験と取材ですが、今、私のブログで敗戦時の満州を徹底探査した「爆風」を連載しています。「戸塚章介」で検索すると私のブログが出ます。「マスコミ九条の会」のホームページにもアップされています。既に11回になりますがまだまだ続きます。これから山場になるところです。ぜひお読みになって感想など寄せていただければ感謝感激です。なおこれまでの分をワードでまとめたものを添付して送ることもできます。希望者はどうぞ。厚かましいお願いですが、どうかよろしくお願いします。 戸塚

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戸塚章介
shosuke765@yahoo.co.jp
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戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(1) 17/10/11

明日へのうたより転載

 日本敗戦から72年、私が満州から引き揚げて71年になる。終活の意味も込めて敗戦から引き揚げまでを詳しく辿ってみたい。種本は非売品・会員限定頒布の『関東軍火工廠史』後編。関東軍火工廠の在籍者とその家族の、敗戦から引き揚げまでの体験を綴った手記を集めて編集したもので、発行者は「遼陽桜ケ丘会」。1980年(昭和55年)9月1日刊行で、A5判689ページである。
 年号表示は西暦に統一したが、人名、地名は手記に書かれたものをそのまま記した。種本のほかに、私の記憶、父母から聞いた話を随所に挿入した。どのくらい長いものになるか不明だが、いずれにしてもこれでもって私のルーツ探しの決定版としたい。
      ◇    ◇     ◇     ◇     ◇     ◇
1、ソ連参戦
 1945年8月9日未明、ソヴィエト極東軍は国境を越えて満州の日本軍への攻撃を開始した。以後、160万在満日本居留民は突然襲った爆風に身を晒されることになった。

 この日関東軍火工廠の林光道少将(廠長)はラジオのニュースでソ連の参戦を知った。すぐに総司令部より何らかの命令があるものと待っていたが、簡単な公電以外は何もない。後に分かったことだが、新京にあった関東軍総司令部は朝鮮との国境に近い通化への移動中で、的確な命令を発することのできる状態ではなかった。満州国皇帝愛新覚羅溥儀も同行しており、新京は既に首都としての機能を放棄していた。

 この「新京撤退、通化移動」は規定の極秘作戦だった。満州国中央政府国務院総務庁の古海忠之次長は44年10月、関東軍池田純久参謀副長に呼ばれて「これから私が伝える事柄は軍の最高機密に属し絶対極秘である」と釘を刺された上で、次のような決定事項を通達された。

 「関東軍は伝統的な対ソ攻撃作戦を取り止め、満鮮一体となっての全面持久防衛作戦に切り替えざるを得なくなり、東辺道に立て籠もる作戦をとる。日ソ開戦となれば関東軍総司令部は通化に移動し、関東軍に命令し、朝鮮軍を区処することを決定した」。

 こんな作戦計画があったとは、少将の地位にある林廠長さえ知らなかった。関東軍100万の兵力は、十分ソ連と戦えると信じていた。

 



by daisukepro | 2017-11-12 08:37 | 爆風