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カテゴリ:爆風( 106 )

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(96) 18/06/16

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(96) 18/06/16

明日へのうたより転載

 引揚船の中の私の記憶としては米の飯のほかに、船中で死んだ人の水葬風景がある。船首なのか船尾なのか、開く方の扉を開けて遺体を海に流した。子どもの遺体だったような気がする。もう一つ、日本への航行中気が狂って海に飛び込んだ人の記憶。もちろん知らない人だが、子ども心にショックを受けた。

 この投身事故については同じ船に乗っていた西村操の手記がある。《船が葫蘆島を離れる頃から彼(小川某)は狂った。明日乗船という日、彼の妻が懸命に背負ってきた母が死んだのだ。体が弱く盲目であった。みんな疲れてはいたが山の崖に穴を掘って泣きながら埋めた。彼は放心して喚き、暴れ、ひと時も目を離せなくなった。男たちは代わる代わる彼の見張りにつく。彼の妻は幼児を抱いて泣き続けた。やがて乗船し船が玄界灘にさしかかった。船酔いで長男が苦しむので甲板に出た私の目の前で彼が見事なダイビングをした。彼は抜き手を切ってしばらく泳いだがやがて海面から消えた》。

 引揚船に使用されたのは米軍のLST(上陸用舟艇)だが、船長はじめ乗組員はすべて日本人だった。だから乗船とともに既に日本に帰ったような気になった。しかしその日本人乗組員との軋轢を経験した引揚者もいた。少し長くなるが、第一大隊の隊長を務めた加々路仁の手記を次に掲げる。

 《船が玄界灘を出た頃である。炊事の使役に出た者から「船の倉庫から米が盗まれた。船長と機関長は引揚者を疑っている」との情報が入った。私は引揚に際してくれぐれも不正がないようにと注意してきた。乗船時の挨拶でも強調したのに、このような事が起こるとは夢想だにしなかった。やっと日本へ帰れるとの気のゆるみか。残念でたまらない。一か年の苦難の体験は何ら得るところがなかったのか。

 早速中隊長の集合を命じて協議した。中隊長たちは果たしてそんな悪事を働く人がいるのか、と不審を抱いて真相の究明に動き出した。船員には覚られぬよう部内の調査を始める。しかし調査には時間がかかる。その間船長や機関長に何も言わないでいるわけにもいかない。とりあえず詫びに行くことにした。船長は「引揚者の皆さんはご苦労されてこられ、又内地に帰られても家もない方もあり、生活の不安から少しでも食料を持ち帰りたいのは人情だ。お米の件は何とかするから心配するな」と寛大な態度だった。

 内密の調査の結果「米泥棒」の真相が次第に判明してきた。船員の中には不心得者がいて、引揚者用の米をピンハネしておいて博多上陸の際ヤミ屋に流すらしい。今回の事件もその一つで、盗まれたと称する米が倉庫とは別のところに隠してあるという確証も掴んだ。

 そのことを直接船長に告発すると事態が難しくなることが予想される。そこで一計を案じた。船長に対して「今日の昼御飯を抜きにしてその分の米を弁償に充てる」と申し出た。昼飯はカレーライスの予定だった。船長は「引揚者に昼飯を食わせなかったら上陸後問題になるからどうか食べてほしい」と出来立てのカレーライスを各人の前に並べさせた。船室にカレーの香りが立ち込める。

 20分、30分しても誰もカレーに手を出さない。いままでざわめいていた船内は静まり返る。40分くらいした頃、船長と機関長が私のところへきて「折角おいしいカレーライスを作ったのに冷めてしまう。早く食べるように命令しなさい。米泥棒のことなど気にするな」と言う。「船長の言われることはもっともだが、我々引揚者の中に不心得者がいたのだから連帯責任で現物を返済する」とこちらもがんばった。
 


by daisukepro | 2018-06-23 17:13 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(94) 18/06/06 明日へのうたより転載

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(94) 18/06/06

明日へのうたより転載

 隊長山口克己少佐率いる第四大隊総勢1054人は6月27日午前8時、集合地点の太子河駅に向けて出発した。太子河駅は旧満鉄大連ー新京線の遼陽駅から旧火工廠に資材を運ぶため敷設された引き込み線の仮設駅である。引揚げ者たちは長年住んだ東京陵の官舎街に別れを告げ、思い思いに歩を進めた。

 第一中隊長の印東和は特大のリュックサックに荷物を詰め込んで妻子とともに歩いていたが、途中で4歳の長女が「もう歩けない」とベソをかいて道端に座ってしまった。夫婦ともに特大のリュックを背負っているので子どもをおんぶできない。かといって荷物を捨てるわけにもいかず途方に暮れた。

 後からどんどん追いこされる。中隊長としてはこれ以上遅れるわけにはいかない。そこへ声をかけてくれたのが顔見知りの南満工専動員学生の岩佐君で、「私のリュックは小さいので印東さんのを背負いましょう」と言って軽々と背負ってくれた。地獄に仏とはこのこと。印東は涙が出るほど嬉しかった。

 全員が太子河駅に到着し照り付ける炎天下で列車の来るのを待ったが、夕方になっても姿を現さない。隊の渉外係が八方手を尽くして連絡の結果、列車到着は明朝になることが判明した。初夏の満州は日が沈むとぐんと気温が下がる。東京陵へ引き返すこともできず、近くの村落で野営することになった。

 (筆者は本ブログで戸塚家の所属した第三大隊の出発も1日延び、その原因は27日が朝から大雨だったと記した。それは第三大隊の幹部だった田中弥一氏の記録によるものである。ところが第四大隊の印東氏は予定された列車が来なかったためという。第三大隊と第四大隊は同時に桜ヶ丘を出発したことがはっきりしている。そうすると出発が1日延びたのは雨のためか、列車遅延のためか、という疑問が残る。

 そこで当時9歳だった筆者の記憶がどうなのか、じっと思い返してみた。私の記憶では、戸塚家の6人は朝日町の人たちとともに鉄道線路を目指した。それは駅というより線路の際で、炎天下にじっと列車を待っていた。雨が降っていた記憶はない。列車は来ない。もう東京陵へは戻れない。夜を徹して線路の際に座り込んでいた。第四大隊のように近くの村落の軒下を借りたような記憶はない)。

印東和の手記。《近くの村落で野営することになったが、我々のような軍隊経験者ならともかく老幼婦女子には苦痛の夜だったろう。真っ暗闇の中を満人村落を訪れ、家屋の土間ならいい方で、大部分は軒下で夜を明かした。翌朝無蓋貨車で遼陽へ行き、駅前広場で荷物検査。午前中いっぱいかかる。遼陽からの列車も石炭運搬用の無蓋貨車。出発したのが28日午後1時。その夜は奉天の貨物駅で貨車に乗ったまま眠る。翌朝奉天を発った列車はその後ものろのろで、葫蘆島のある錦西駅に着いたのは30日の午後だった》。
 
 


by daisukepro | 2018-06-09 06:24 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(93) 18/06/03 明日へのうたより転載

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(93) 18/06/03

明日へのうたより転載

 火工廠のあった桜ヶ丘から錦西駅までの列車の旅はどんなものであったのか。6月26日に出発した第二大隊の隊長だった松岡道夫と28日出発の印東和の手記に基づいて辿ってみよう。

 26日は朝から晴れた穏やかな日だった。東京陵の官舎から引き込み線の太子河無人駅まで2キロ余の道を、一ヶ大隊1000人で歩いた。老人や病人を乗せた素人づくりの手押し車はすぐ車輪が外れる。手早く修理して皆に遅れまいと先を急ぐ。妊婦が顔から汗を流して歯を食いしばりながら歩いている。途中で妊婦を担架に乗せる応急措置をした。それでも遅れる人が続出して隊列は延々と伸びた。

 やっと太子河無人駅に着き、10輌の無蓋貨車に分乗する。後部に繋がれた3輌には引揚船乗船までの食料と燃料を積む。見送りの加藤治久大尉ら留用組の人たちと手を振って別れ、13輌の列車はゴトンと動き出した。間もなく遼陽駅到着。野木遼陽居留民会会長をはじめ多くの人々が迎えてくれた。

 遼陽からは旧満鉄を奉天に向かう。既に満鉄は国民政府に接収されており、この引揚げ列車も運転手、乗務員は皆中国人である。列車運行の命運はすべてこれら中国人に握られている。運行の便宜を図ってもらうため、乗務員に一定のチップを渡す。そうしないと予期せぬ小駅に停車し、警備員に服装検査と称して金品を巻き上げられると聞いてきたからだ。お蔭で途中停車もなく奉天駅に着いた。

 列車は奉天で大連ー新京線と別れ、錦州方面から北京まで行く路線に入る。ここで困ったことが起きた。奉天駅に列車が止まると国府軍の停車場司令官が松岡隊長を呼びつけた。プラットホームに降りると「この列車は規定以上の車両をつないでいるので後部の2輌を切り外す。発車は30分後だ」と言う。彼はそのまま返事も聞かずにどこかへ行ってしまった。後部2輌には食料、燃料の3分の2が積んである。移し替える時間はない。

 乗船まで何があるか分からない。後ろ2輌の切り離しは部隊にとって致命傷になる。部隊幹部が緊急招集された。相談の結果、賄賂を使うしか方法がないという結論になった。当時の金で1万円、それをだれが司令官に渡すのか。結局松岡隊長の役目となり、機会をうかがったがなかなか難しい。彼が1人でいるところでなければならない。そのうち全員列車を下りて駅前広場に整列せよとの命令が出た。

 司令官が広場の隅に1人で立っている。他の兵士は引揚げ者を整列させるために忙しい。松岡は司令官の傍に寄り、そっとお金を渡す。司令官はお金を確かめてからその場を去った。間もなく全員乗車の命令。列車はすぐ錦州へ向けて動き出した。松岡はほっとして水筒の高粱酒を側近にも注ぎ、苦笑いしながら乾杯した。列車は夜を徹して走る。無蓋貨車は風が強く当たり、病弱者や子どもたちは震え上がった。乗船港葫蘆島に近い錦西駅に着いたのは28日午後3時を過ぎていた。
 


by daisukepro | 2018-06-09 06:14 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(92) 18/06/02


戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(92) 18/06/02

明日へのうたより転載

12、錦州錦西葫蘆島収容所に滞在中は医療班長は主力を防疫患者発見及其処理手続、死者処理手続、清掃指導、保健生活指導に置き診療は簡易なる処理投薬をなし複雑なる治療は其他に於ける日僑総処事務所所属医療機関に委託若しくは協力を求めること。

13、船内に於いては医療班は唯一の衛生機関なるにより全力を挙げて患者発見並に其処置保健生活指導に任ずる。

14、遼陽総站錦州、錦西葫蘆島に於ける保健機関は次の如くなるに付き之と緊密なる連絡を保つこと。
遼陽総站=防疫診療所 錦州=辨事処衛生班医療隊 錦西=同左 葫蘆島=辨事処衛生科医療隊防疫隊

15、救急箱は中国の寛大な(1字不明)ひにより認許されたものにして時価約6,000円の薬物を納めあるに付き其管理保存投薬方法には慎重且つ厳格を期すべく若し内地港到着後残余品あらば船中に留め置くこと。

 この事務室通達を見ると、伝染病患者及び「普通旅行に耐えざる者」はそもそも引揚者から除外され、また途中で病気や怪我をしたら置いていかれることになる。何としても健康でなければならない。集団の足手まといになってもいけない。年寄りや幼児といえども自力でがんばるしかない。

 引揚げ時の戸塚家の構成は戸塚陽太郎(40)、せん(37)、和子(13)、章介(9)、栄子(5)、順子(生後2か月)の6人。父と姉はリュックサック、母は赤ん坊を背負い、私は2月に死んだ妹悦子の遺骨の箱を白い布に包んで首から下げた。栄子は隊の移動に遅れないよう自分の身を処するのに精一杯だ。

 桜ヶ丘部隊の出発は46年6月26日に第一大隊と第二大隊、翌27日に第三大隊と第四大隊の予定だった。6月26日は穏やかな晴天で予定通りに出発したが、27日は朝から大雨、出発は28日に延期された。戸塚家が所属していた第三大隊は出発の準備を整えてじっと天気恢復を待った。

 28日は快晴。まず満鉄遼陽駅からの引き込み線の太子河無人駅まで約2キロの道のりを歩く。迎えの無蓋貨車に乗り込んで、夜を徹して走る。途中停車してしまい、このままこの地で野宿かと心細い思いをしながら、それでも29日午後3時には引揚げ港のある錦州錦西駅に着いた。
 
 


by daisukepro | 2018-06-09 06:09 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(91) 18/05/31 明日へのうたより転載

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(91) 18/05/31

明日へのうたより転載

 部隊の中で医療班の果たす役割は他に増して大きい。引揚者は女子どもが過半数であり、病人、妊婦もいる。過酷な移動条件を克服して日本まで送り届けなければならない。遼陽市日僑善後連絡所は46年6月9日付で次のような「遣送事務室通達」を出した。

1、大隊医療班は医師1、医学生2、看護婦1、を以て構成する。過剰の要員を附せざること。但し患者遣送を開始せば班員を増員することも之は別途指示す。

2、医療班長は成るべく早く分処主任並びに大隊長と緊密なる連絡を取ること。

3、分処主任若しくは大隊長は大隊出隊2乃至3日前に医療班長をして隊員の健康診断を施工せしめ普通旅行に耐えざる患者特に伝染病患者を除外すること。従って出発駅に於いて伝染病患者若しくは旅行に耐えざる患者を発見されたる場合は分処主任、大隊長医療班長の責任とす。

4、分処主任は少なくとも出発3日前に大隊救急薬格納用函を総処衛生科に持参し薬品並びに格納薬品一覧表の配布を受け厳重に保管すること。上記配布薬品は己に四拾以上の検査経験ある品目にして不合格の憂なきものに付き此の活用を維持する為医療班長の私見により薬品の加除は行わざること。従って検査の際不合格を出したる時は医療班長の責任とす。

5、医療班長は出発前衛生科医療股に出頭赤十字旗並びに班員の赤十字腕章を受け取ること。其の他の手続きは一切分処主任並びに大隊長に於いてなすこと。

6、医療班長は自己の出発により診療所閉鎖となる場合は接収品目録作製の上少なくとも3日前に統一接収委員会衛生組に届出て且つ鍵の授受等につき打ち合わせること。

7、医療班長は出発の際聴診器1、検温器1、メス1、ピンセット1、剪1を携行すること。

8、医療班長は大隊編成決定後は大隊隊員の保健事故を防止するため特に健康診断をなし生活指導により伝染病患者発生防止に努力すること。

9、予防注射は種痘、発疹チフス、腸チフス、コレラの四種にして総処及び分処に於いて施工するも医療班長は大隊隊員の予防注射の結果を確認し予防注射未了者の皆無を期すこと。

10、瀋陽総站収容所収容中の診療は収容所医療班に於いて施工するも大隊付き医療班は之と緊密なる連絡をとり且つ可能なる範囲の協力をなすこと又、収容所収容中の清潔整頓に関し指導をなすこと。

11、列車内に於ける保健事故の処理は困難なるが故に其の方法に付き医療班長は大隊長と事前に打ち合わせを了し其の要領を中隊小隊長に周知せしめること。
 
 


by daisukepro | 2018-06-05 05:54 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(90) 18/05/28 明日へのうたより転載

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(90) 18/05/28

明日へのうたより転載

 《再び満州に進出して来る日本人のための礎石になろう》と意気込んで留用に応じた松野徹だったが、46年暮れ頃になってみるとどうも気合が乗らなくなった。頼りにした国府軍に勢いがない。工場の本格再開には程遠い。毎日手持無沙汰でぶらぶらしている有様だ。そのうち1947年の正月になった。

 日頃実直な責任者の吹野信平少佐が「正月くらいは酒でも飲もうや」と言い出した。年末に国府軍紙幣で給料が出たばかりだ。部落の中国人に頼んで奉天に行ってもらい、日本酒の4斗樽を買ってきた。唐戸屯の官舎に集まって飲めや歌えの大騒ぎ。警備の国府軍兵士から文句を言われる始末。

 いろいろ手をまわして調べてみると、一旦北方に立ち去った八路軍が南下を始めたらしい。今や国府軍の方が押され気味だ。そういえば、彼ら八路軍はこの地を去るとき、我々に《1年後には必ず戻ってくる》と言っていた。そんなことを松野は思い出してはそれもありうると考えるようになった。

 正月が過ぎたある日、松野は吹野について奉天の満鉄官舎にいる居留民会の高碕達之介会長を訪ねた。高碕は2人に「蒋介石は偉い人物だが、中国の国情は彼の思うようには行かぬのではないか」と感想を述べた。松野はそれが真実だと感じた。国民党と中国共産党の軋轢の中で日本人ができることは何もないのではないか。それなら1日も早く日本へ帰りたい。日本の土を踏みたいとしみじみ思った。

 国府軍の形勢はますます悪くなる。その年の5月になると旧火工廠の工場再開は難しいとみたのか、留用者の一部を帰国させることになった。――留用者の帰国については後述する。

 戸塚家や小林家を含めた一般引揚げの準備は46年4月末から急速に進んだ。遼陽市の日僑善後連絡処(野木善保主任)のもとに東京陵、唐戸屯を一緒にした桜ヶ丘支部(宮川峯雄主任)が形成される。引揚げ事務は桜ヶ丘支部の手で滞りなく進み、吹野信平少佐ら約100人の残留者に心を残しながら出発の日を待つことになった。6月8日からは種痘、チブス、コレラ等の予防接種が実施され、出発間近かが予感された。

 桜ヶ丘支部の一般引揚者は約4000人。これが4大隊に編成された。大隊所属は居住官舎で決められ、戸塚家は第三大隊に組み入れられたと思われる。第三大隊は総員1083人で、市川隊長のもとに経理、書記、渉外、通訳、医療の直属班、その下に7中隊、中隊毎にさらに5小隊の編成である。中隊は150~160人、小隊は30人前後でそれぞれに隊長が任命されている。戸塚家がどの中隊、どの小隊に入れられたかは分からない。

 (戸塚家が第三大隊だったことも推測による。関東軍火工廠史によると、4大隊はそれぞれ日本の帰港地が別々で、第一大隊と第三大隊は博多、第二大隊は佐世保、第四大隊は鹿児島となっている。戸塚家が博多に帰ってきたことは確かだから第一か第三だ。このうち第一大隊長の加々路仁は唐戸屯の第二工場長だった。居住官舎毎の編成だとすると東京陵居住の我が家は第三大隊になるはずだ)。

 
 


by daisukepro | 2018-06-05 05:43 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(89) 18/05/27 明日へのうたより転載

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(89) 18/05/27

明日へのうたより転載

 留用者の大部分が唐戸屯地区に集められ、東京陵の第三工場に残ったのは和泉正一中尉ら10世帯になった。工場再開には程遠く、仕事といえば引き揚げていった空き家の残留物整理くらい。時間を持て余す日が続いた。ちょうど作物が獲れる時期で、空き家の庭の家庭菜園には胡瓜や南瓜が食べ頃だった。

 工場要員の1人盤若賢吉は7月のある日、暇つぶしに和泉正一と2人で太子河まで魚釣りに出かけた。大雨の後にできた池を迂回しているうちに帰り路がわからなくなる。2人で高粱畑の中をさまよううちに日が暮れてくる。やっと見つかった鉄道線路。地獄に仏とはこのこと。線路に沿って東京陵に戻ることができた。もう真っ暗で、心配した留守の人たちが迎えに出ており、2人は平謝り。その後は大笑いだった。

 46年秋になると留用者の第一次帰国の話が出てきた。しかし盤若は帰国どころではない。妻が臨月なのだ。唐戸屯には勝野医師がいるが東京陵には誰もいない。急ぎの場合どんな方法で連絡すればいいのか。悩んでるうちにも妻のお腹は金魚のように膨らんでくる。爆弾を抱えているような毎日だ。

 10月半ばには10世帯のうち8世帯が帰国して、残りは和泉、盤若の2世帯になってしまった。その2世帯にも東京陵から唐戸屯への移動通達がくる。明日馬車に荷物を積んで東京陵を離れようとした夜中の2時頃、妻が陣痛を訴えた。和泉中尉と相談してとりあえず唐戸屯まで歩くことに。暗闇の中を歩き始めた。

 箱根山の山道で突然「誰呼(セイヤ)」と厳しい声で誰何された。国府軍の分隊らしい。言葉は通じなかったが妻のお腹を指さしたら「アイヤー快走、快走」と手のひらを返したように親切な扱い。人の情に国境はない。若い兵士の顔から柔和な温かさが溢れていた。

 東の空が白む頃やっと唐戸屯の官舎地区に着き、第三工場で同僚だった中尾宅に落ち着いた。盤若は妻を預けて荷物を取りに東京陵へ戻る。玄関を開けると中国人の女や子どもが蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。彼らにすればどうせ捨てていったものだから失敬してもいいだろうと思ったに違いない。衣類や家具は取られたが、出産用品を入れた行李は無事だった。そこへ迎えの馬車が来た。

 唐戸屯の決められた宿舎に荷物を置き、その足で中尾宅へ直行。「まだだよ」と勝野医師ののんびりした声。妻は苦痛で呻吟していたが盤若は大船に乗った気分になる。どちらが生まれるだろう。男なら命名を偉い人に頼むとして女なら桂子にしよう、と決めた。長い陣痛の末、和泉医師に励まされ、和泉夫人の手により無事女の子が誕生した。46年10月16日、早朝からの目まぐるしい一日が暮れていった。
 
 


by daisukepro | 2018-06-05 05:39 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(88) 18/05/23

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(88) 18/05/23

明日へのうたより転載

 留用者の給与はどうだったのか。国府軍は留用者に対して「生活は保証する」と約束、46年7月分から支給された。賃金レベルは旧日本軍隊時代の階級に応じて決められる。例えば旧大尉であった者は、国府軍の中尉程度の金額が支給される。給与のほかに白米の無料配布が少量ながらあった。

 給与額が旧軍隊の階級に基づくため、火工廠当時の賃金体系との矛盾が出た。火工廠当時、軍人でない古参の職制は将校以上の額をとっていた。それが極端に低くされる。当然不公平感が出る。そこで46年10月分から日本人内で賃金の再配分が行われるようになった。生活費に基づく均等化である。

 まず日本人全員の給料を国府軍から一括して受領する。そして一定の配分係数により算出した額を各人に支給する。どんな係数が決められたか不明な点もあるが、和泉正一の記憶によると《主人(10)、妻(8)、子供(5)》であったらしい。係数配分の提案者は吹野信平少佐だったといわれている。

 年が明けて47年春になると、それまで八路軍に対して優勢だった国府軍が劣勢を伝えられるようになった。それに伴って国府軍紙幣の信用が急落し、八路軍による物資の流通遮断も相まって猛烈なインフレに襲われる。給料も毎月引き上げられたがインフレの速度には追い付かない。給料が出るとすぐ、生活必需品の米、調味料、豚肉、粉ミルク、煙草などを買いに市場へ走った。

 木山敏隆の手記。《インフレは激しく、家族数に応じて再配分してもらった給料と現物支給の雑穀は、数日中に生活必需品に交換された。貴重な所持品の物々交換でタンパク質を補充する。日曜日、遼陽市内へ菅野氏、中尾氏らと買い出しに行く。すべてに飢えている我々にとっては、見るもの聞くもの皆楽しいものばかり。米国製品が氾濫している。長年見たこともない洋モク、初めて見るナイロン製品等店頭にずらり並んでいた》。

 留用者の中には一般引揚当時肺結核等の重病で、残留せざるを得なかった人たちがいた。そのうち緒方少尉が46年6月28日、小林雅男が同9月20日、南満工専学生の工藤が同9月中旬に相次いで亡くなった。また勝野六郎医師の義理の母勝野せいを始め、1歳の幼女から大人まで10数人がジフテリア、疫痢、肝疾患などで日本の土を踏むことなく大地に骨を埋めた。

 勝野六郎医師の手記。《引揚げの数日前、丘の上の墓地を訪れた。親戚の反対を押し切って、満州まで私たち夫婦についてきた時の義母の嬉しそうな顔が思い浮かぶ。満州の地に骨を埋めることになった霊に敬虔の黙祷をし、同時に安らかに眠る人々のために冥福を祈って丘を降りて帰ったが感慨無量だった》。
 
 


by daisukepro | 2018-06-05 05:37 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(87) 18/05/17 明日へのうたより転載

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(87) 18/05/17

明日へのうたより転載

 河田哲(南満高専学生)「46年3月、松本百公さんに呼ばれて峨嵋荘というところまで会いに行った。八路軍の急な撤退と国府軍の進攻に挟まれて一夜を日本人宅で過ごした。その時の話し合いで、日本へ帰るより中国に残る方がかえって日本のためになるのではないかということになり残留を決意した」
 玉井林(奉天工大学生)「内地の混然たる状況を想像して、慌てて帰るより内地の安定を待った方が身が処し易いだろうと判断した」

 工場再開を図った国府軍だったが、旧火工廠の工場設備はソ連軍、八路軍により大方接収され主要部分は壊滅状態だった。そのため設備の残存している旧奉天造兵所から東京陵、唐戸屯の各工場へ機器を移転、軍用火薬の製造を開始した。工場の日本人最高責任者は吹野信平少佐で、松野徹は庶務課長、辻薦、和泉正一は工程師、玉井林は工程師補、木山敏隆は技術員などそれぞれ役職を与えられた。

 国府軍はこの工場を「聯合勤務総司令部第九十工廠遼陽分廠」と命名し、黄大佐が廠長として業務を管轄した。幹部の中には女性も含まれ、奉天工大など日本の学校を出た技術者が大半を占めた。このようにして工場生産は再開されたが、設備不足のため本格操業には程遠かった。

 生産準備のために各工場に残存している図面の整理、補充がまず最初の仕事だ。成田正三は中国人の技術者に補充図面の作成を指導したが、製図能力、理解力に欠けほとんど役に立たない。敗戦時に焼却した工場配置図と水道管敷設図を新たに作成する作業も困難をきたした。

 工場によっては全然仕事がなく、自宅待機状態の部署もあった。日本人留用者たちは自宅で豆腐や飴をつくって生活の糧にした。時には太子河に釣り糸を垂れたり、一般引揚後の空き家の残品整理をしたりして日を過ごす。吹野信平をはじめ日本人幹部数人で囲碁を楽しむ姿も見られた。

 仕事らしい仕事としては46年10に設置された研究室がある。国府軍将校の銭が責任者で、日本側は鈴木弓俊が業務を仕切った。中国側から発煙弾の分析法、発煙剤の製造法などについての質問があり、それに丁寧に答えた。ダイナマイトの製造と爆破実験も行われた。

 留用者の子供は30人で、1人は中学生だが他は国民学校の生徒だった。桜ヶ丘国民学校の教師で残留に応じた鈴木久子と岡島悦子が教育に当たった。旧火工廠幹部の伊藤礼三、稲月光、和泉正一、佐野肇、鈴木弓俊らがカバー、勝野六郎が校医として名を連ねた。この桜ヶ丘国民学校は在満教務部の正式承認を得ており、校長・伊藤礼三名で卒業(終業)証書が授与された。

 家族のいる留用者の宿舎は一般引揚者が帰った後の弥生町の官舎を使った。独身者は旧松風寮に中国人独身者とともに住まわされた。食事は金を払って中国人と同じものを食堂で食べた。火工廠幹部将校が住んでいた職員宿舎は中国人高官の住まいとなる。元の吹野信平宅には黄廠長が住んだ。
 
 


by daisukepro | 2018-05-19 11:00 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(86) 18/05/15

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(86) 18/05/15

明日へのうたより転載

 次に国府軍留用者について記す。1946年3月18日に八路軍が火工廠を撤退し、替わりに国府軍が進駐してきた。国府軍も八路軍と同様、火工廠を活用して工場復旧、火薬製造再開を企図していた。そのためには日本人技術者の大量残留、つまり留用が必須条件だ。一方、一般引揚げの動きも本格化する。国府軍は引揚げに協力する見返りとして工場再開に必要な人材の提供を火工廠幹部に迫った。

 居留民会に責任を持つ吹野信平少佐は、全員揃っての引揚げを念願しながらも、引揚げ業務を円滑に進めるため一定の人員の残留を承諾する決断をした。留用者の人選は日本側に任され、吹野は旧職場のそれぞれの担当者に選考を依頼する。留用者の中には個人的判断で残留した人もあったが、大部分は旧上司の依頼・説得によるものであった。一般引揚げの促進というのが説得の材料になった。

 このようにして92人の留用者の名簿がつくられた。その家族163人を加えると総勢255人になる。この名簿の中には吹野信平をはじめ、これまで本稿に登場した火工廠幹部の名前が多く見られる。

 吹野信平、松野徹、勝野六郎、木山敏隆、成田正三、鈴木一郎、井上二郎、鈴木弓俊、伊藤礼三、佐野肇、稲月光、加藤治久、麻殖生成信、井上富由、和泉正一、辻薦、鈴木久子などである。ほとんどが技術者だが、残留者の健康と生命を守るために勝野医師が、残留者の子弟の教育を任務として国民学校教師の鈴木久子も残った。

 残留者の胸中にはそれぞれの複雑な思いが去来した。「関東軍火工廠史」に寄せられた手記の中からその「思い」の一端を抜き出してみよう。

 松野徹「こうして留用されるのも、後に再び進出して来る日本人のために、辛かろうが、我々はその捨て石になろう」。
 勝野六郎「淋しさと悲しさを乗り越え、留用者の生命を何とか病気から守ってあげたい強い医師の願望が私を支えていたのみだった」。
 和泉正一「(工場長の立場として)私の場合は、覚悟せざるを得なかったが、さて9名となるとまるで説得の自信はなかった。しかし私を信じて、思ったより早く残る決意をしてくれた」。

 木山敏隆「ある日浅野中尉がやってきて、国府軍から留用の要請がある、日本人の引揚げ促進のためでもある、君に残ってもらいたいと言われた。納得できかねるのでいろんな質問をして抵抗した。しかしまだ若いし健康だ、君の専門の土木関係は老齢者ばかりだ、何とか残ってくれと頭を下げられてしぶしぶ承諾した」。

 野久尾良雄「終戦の日、敗戦を認めずソ連軍と決戦するべく首山堡に立てこもった青年工員の一人として燃えたことがあった。留用に応じ、いつの日か、祖国のために戦おうとの気持ちがまだあったように思う。独身者としての自由さ、身軽さだったのではないか。そこに目をつけられた気もするが」。
 井上富吉「第二工場には愛着があった。復旧して元通りにしてから帰るのが人情、また班長以上の大部分が残るということで、再三すすめられて残ることに決めた」。
 小田政衛「実は迷っていた。親友と相談したらやはり留用の話がきていて承諾したという。医療の保証が心配だったが、勝野医師が残るというので留用に決めた」。
 
 


by daisukepro | 2018-05-19 10:56 | 爆風