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カテゴリ:爆風( 106 )

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(85) 18/05/14

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(85) 18/05/14

明日へのうたより転載

 (須本佐和子の手紙の続き)漢口を前にして、美しい揚子江に大阪の街を想像しました。感無量です。革命が成功するのも最早目前に迫っております。でも我々は元々は捕虜なわけですから如何になることやら。しかしどんなことになっても私は日本人として中共軍とともに戦います。立派な薬剤師になって帰ります。日本人男女合計60名余りいますが、まだ外国人には結婚を許しておれません。そのため44歳の方を始めとして全員独身です。

 またこの軍隊は、思想の悪い者、日本でいう右翼主義者は、全部、始めから叩き直されます。昔の日本の軍隊とは、全然違った、厳しい軍隊です。我々も戦います。(中略)今宵も美しい星が輝いております。まだまだ書きたいけれど、これにて止めます。この手紙が無事にお母さまの手に渡るよう神様に祈ってぺんを置きます》。所属「中国人民解放軍第三野戦軍 第四〇軍 衛生部野戦第三所」

 外国人の結婚について、49年当時は許されていなかったようだが、解放後は結婚が奨励されたらしい。須本佐和子の51年10月25日付の手紙によれば、同僚の藤野看護婦が結婚し可愛い坊やの母親になったことが書かれている。須本自身は一度婚約したが、相手が病身のため取り消している。

 52年11月19日発信の須本佐和子の手紙。《ご両親様御許へ お父様お母様からお手紙を頂いてもうすぐ4~5ヶ月になりますが、種々何かと取り紛れ、忙しく今日に至りました。今私、体を少し悪くし、手術を要するので病院に入院しております。別に心配する程の病気でもありません故、気にかけないで下さいませ。病院生活も2ヶ月になりますが、毎日皆様良く面倒を見て下さいますのでいつも感謝しております。

 日本人の多くが結婚生活に入っておりますが、生活に何の心配もなく、毎日幸福な日々を送っており、生まれてくる子供は、国家の子とし、育てられ、1人の子供に何万円と保育費がつき、成長すれば、日本人の育児所、幼稚園、小学校、中学、大学と進学でき、教育程度もうんと高く、子供も希望のある将来を望めます。

 働けば働くほど豊かになる、楽しい生活、私達もこうして入院しておりましても、入院費もいらなければ、治療代もいらず、給料は普通のように頂け、美味しい栄養価のある食事に感謝しながら、休養いたしております。日本の現在の状況と違って働くものの国は、日一日と豊かになり、私達の生活も益々幸福になって行きます。思いついたまま筆をとりました。皆様お元気で。漢口市 61病院にて》。

 須本佐和子はこの手紙の後日本人男性と結婚し、都村佐和子となって1954年7月に帰国している。
 
 


by daisukepro | 2018-05-19 10:51 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(84) 18/05/10

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(84) 18/05/10

明日へのうたより転載

 53年8月14日発信の大塚智子の手紙。《私この度元気で還ってくることができました。日本の皆様方のの長い間の支援の賜と只々感謝いたしております。存じませぬこととて、桜ヶ丘会の皆様へ今日まで一言の帰国のご挨拶もいたさず大変失礼いたしました。何卒ご容赦下さいませ。

 (中略)実を申せば、私、当時の病院責任者を大変お怨みいたしておりました。元来私たち4名の者は白百合寮より臨時に手伝いに行っていたもの。その私たちを、看護技術もなきものを、看護婦を要求する中共軍に差し出した責任者に対して、命令とは言え、その不良心を、どんなに痛切に感じたことでしょうか。約束の期限がきても、病院からも、火工廠の部隊からも何の音沙汰もなく、誰も中共軍に交渉してくれませんでした。そのまま帰国の日まで、初めに受けたこの仕打ちは、何かにつけて空しい憤りになったことでしょう。

 敗戦という大きな国家的転換時には、個人の生活にも大きな打撃は免れ得ぬものと、既に覚悟はいたしておりましたが、懐かしい東京陵を遠く離れ、異国人ばかりの中で、あまりの激変に耐えかねて、また毎日毎日の強行軍にくたくたになっては泣いて遼陽を恋しがった幾日、そうした時には、決まって最後には病院責任者への悪口になりました。当時の情勢から仕方がなかったと了解しつつも、なお訴え所のない心の鬱々の矢を向けておりました。

 帰国後初めて桜ヶ丘会と皆様の活動を知りました。皆様の変わらぬお心に、私は今更、怨んだ自身を恥じております。お陰様で本当に明るい気持ちになりました。重ねて皆様に深く感謝いたします。(中略)
最後にこの間の尊い犠牲者のご冥福とご遺族様の前途ご多幸をお祈りいたします》。

 49年7月発信の須本佐和子の手紙。《懐かしい母さん、和史、久美子、和美ちゃん。突然の音信、さぞかしお驚きになったことと思います。佐和子は無事に生きておりますゆえ何卒ご安心下さいませ。お父さまは青島からお帰りになりましたでしょうか。(中略)恐ろしい空襲に家の被害はなかったでしょうか。本当に皆無事でしたか。佐和子も親不孝をして家を飛び出しましたが、その罰が当たって、敗戦後すぐ遼陽の陸軍病院に応援に行きましたところ、そこで八路軍に連れられて4年間、つらい日々を送らせれられました。

 毎日行軍行軍で、夜昼ぶっ通しの行軍、兵隊と一緒に寝、弾の飛び交う中の負傷者収容・・・。今では立派な八路の看護婦さんです。この部隊には男女合わせて60名の日本人がいます。初めは何も分からず毎日泣いてばかりおりましたが、現在は調剤の方を中国の人と2人でやっております。思いがけず、今日、他の部隊で働いている日本人の看護婦さんから、内地から手紙が来たと聞いて、早速筆をとりました。5
年間の苦しい涙の生活、如何に書いてよいか、ただ胸が一杯で、何も書けません。自分の元気をお知らせいたしたく、それのみに心が焦って、無茶苦茶に書いています。
 


by daisukepro | 2018-05-11 18:44 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(83) 18/05/09

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(83) 18/05/09

明日へのうたより転載

 生駒は約2ヶ月の取り調べの末「無実」だと認定されて他の20人ほどの日本人とともに釈放された。生駒には何の疑いで逮捕・投獄され、厳しい責め苦を受けたのかとうとう分からなかった。――筆者は《あの民家の主に嵌められたのではないか》と疑っている。彼は国府軍の進駐を察知し、そちらに付け入るためにお土産を考えた。それで生駒に八路軍からの脱走をそそのかし、八路軍のスパイとして生駒たちを密告したのではないか。これは筆者の推測であり真相は不明だ。

 生駒たちは安東まで国府軍兵士に護送され、奉天行きの列車に乗せられた。奉天に着いたのは1946年1
2月30日で、満州各地からの避難民が集まったバラックに入った。このバラックは国府軍の管轄下にあったが生駒は許可を得て知り合いの満州医科大学の原教授を訪ねた。最初はあまりの乞食同然の姿のせいか玄関払いされそうになったが、やがて「あの京大医学部出の生駒医師ではないか」と判明し、正月3日間世話になった。お餅を食べさせてもらったり衣類は熱湯消毒してもらったりした。

 原教授から東京陵病院の勝野六郎軍医に連絡が行き、47年1月半ば、勝野医師と病院勤務の町田修造の2人が迎えにやってきた。国府軍に生駒の火工廠への帰還を申請して許可を得、1年ぶりに生駒は東京陵の土を踏んだ。東京陵は勝野医師ら数人の留用者以外は帰国した後で、中国人の町になっていた。

 生駒医師らが〝脱走〟した後の医務留用者はどんな道を辿ったのか。生駒医師と林医学生(衛生兵)がいなくなり、荷宮歯科医も病気のため東京陵に帰ったため一行は看護婦の坂典代、須本佐和子、大塚智子、藤野、林田、岸本ただえの5人だけになる。このうち藤野は途中で東京陵に戻り、岸本も病弱のため21年夏に一般引揚者とともに帰国し、残りは坂、須本、大塚の3人になった。

 この3人の消息を知らせる本人からの手紙が「関東軍火工廠史」に収録されている。
 1950年1月25日発信の坂典代の家族あての手紙。《お母さま、兄さん、芳美さん。お懐かしうございます。お母さまもご無事で内地にお帰りなされたことと信じ、筆をとっております。(中略)私もお陰様にてどうやら無事に今日まで過ごしてきました。言葉の分からない風俗習慣の違ったところにて随分苦労をしましたけれど、現在はどうにか慣れてやっていけるようになりました。

 雪降る遼陽でお別れ致しまして以来、満州各地を歩き、有名な万里の長城を目前に仰ぎつつ、歩いて越えたのも一昨年の末にして、黄河を渡り、揚子江を渡り、現在は広東省の雷州半島まで来ています。自分ながらもよくここまで歩いてこられたものだと驚くくらいです。ここは1月というのに日本の夏と同じ気候です。蚊や蠅も沢山おります。バナナやトマトなどの果物類も豊富ですが、やはり内地のようなお餅や味噌汁、梅干しなどは見受けることができません。そんなことなどいつも皆で話し合っては、懐かしき故郷、そして親、兄弟を偲んでおります》。
 坂はこの手紙を出した後同じ留用者の男性と結婚、荒井典代となって53年7月に帰国している。
 
 


by daisukepro | 2018-05-11 18:42 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(82) 18/05/07

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(82) 18/05/07

明日へのうたより転載

 前回本ブログで医務留用者は全員独身だと記したが、第二陣の生駒一彦軍医大尉だけは病弱な妻がいた。八路軍留用の命令を受けて生駒は言葉に表せぬ不安と悲しみに落ち込んだ。出発の前夜、妻と寄宿の若い看護婦を前に「おれの命は分からぬが、何卒2人で助け合い無事内地に帰るように」と諭す。3人で手を取り合い、別れの水杯を交わした。

 生駒たちは第一陣と違って、診療部隊として八路軍とともに行動することを要求された。遼陽から東へ向かった診療部隊は、移動中も前線から後送される戦傷病者の治療に当たった。傷の手当をする際に、傷口に付着したシラミの多さに驚いた。シラミはやがて医療者にも付き痒さに悩まされた。

 一か所に何日か駐屯する時、八路軍兵士は新聞を見せて「中共軍は有利に戦いを進めている。いまに中国全土を解放する暁には、必ず皆を返すからそれまで辛抱してほしい」と語った。しかし事実は負け戦で、夜を徹して山岳地帯を行進せざるを得ない。日本人同行者は足を引きずりながら部隊に従った。

 46年暮れ、大石橋とかいう温泉地にしばらく駐屯した。何か月ぶりかにゆったり湯につかり生き延びた思い。夕方6時以降は自由時間を与えられ、生駒たちは麻雀をしてしばし楽しんだ。同行の女性たちは集まって唱歌を合唱した。子ども時代を思い出しながら歌う「赤とんぼ」や「浜辺の歌」がいかにももの悲しく聞こえる。「果たしていつ祖国へ帰れるのか。夢で終わるのか」。皆気持ちは同じだった。

 生駒は睡眠中でも急患が出ると呼び出された。患者は注射を大変喜んだ。生駒は「太夫、太夫」と呼ばれて敬われた。年が明けると戦況はますます八路軍に不利になり、鴨緑江近くに追い詰められた。そこも維持できず、ついに北朝鮮へ逃避することになる。日本人も一緒だと言われた。

 この時生駒は近くの民家で休息していた。民家の主は生駒に「北朝鮮に入ったら日本へは絶対に帰れない。すぐにここへ国府軍が進撃してくるからしばらくここの床下に隠れていればよい。国府軍が到着したら手をあげて出てきて投降しなさい。それが賢明だ」と説得された。生駒は迷ったが、一緒にいた衛生兵と2人で相談した末民家の主の説に従うことにした。この決断が大変な辛苦を味わうもとになった。

 やがて騎馬に乗った国府軍兵士がやってきたので生駒たちは手をあげて床下から出た。国府軍兵士は2人を捕虜扱いにして後方陣地へ移送。中国語で厳しい尋問が行われた。しかし生駒たちはほとんど言葉が分らないし喋れない。そのまま日本でいう営倉にぶち込まれる。それから厳しい捕虜生活が始まった。

 雪の降る朝、営庭に木椀を持って整列させられる。柄杓に一杯ずつの高粱粥を椀に入れてもらい、立ったまま食事する。粗末な宿舎は冬でもシラミだらけだ。広い土間にムシロを敷いて捕虜の朝鮮人、日本人、八路軍兵士が一緒に座り、シラミを取ってはつぶす。屈辱的な毎日だ。

 生駒は軍医将校だったということで特に取り調べが厳しい。皆の前で幾度もビンタを張られ、半裸体とされ、腹巻に仕舞ったお守りを破り捨てられ、眼鏡も粉々に砕かれた。便所は営庭の一角にあり、銃剣を持った兵士の監視つきで、大小便をさせられる。少しでも排便が遅いと殴られた。
 
 


by daisukepro | 2018-05-11 18:40 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(78) 18/04/24

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(78) 18/04/24

明日へのうたより転載

 
 徳能は湯船に落ちた子どもを救いあげ、夫人に手渡す。自分は板の間に頭を抱えて座り込んだ。じっと痛みを我慢している様子。全身大火傷だ。子息の通孝は泣き声も立てられずに3時間後に事切れた。徳能中尉は医師の手当てもできず、一晩中呻きながら朝を待った。朝8時に板の上に布団を敷いた急造担架に乗せ、小林新之助、弟の信夫、間下守、飯野久夫の4人で丘の上の陸軍病院へ担ぎ込んだ。

 全身真っ赤、崩れそうな水泡が痛々しい。治療といってもなす術はなく、脱脂綿に油薬をつけて布で巻くだけ。5本の指も癒着している。看病の小林にかぼそい声で「水をくれ」と言ったのが最後で、夫人に看取られながら事故から2日目に死んだ。亡きがらは裏山に馬車1台分の薪を積んで火葬にした。

 4月上旬、国府軍の進攻を避けて一行は石峴へ向けて通化を離れた。石峴では旧東洋パルプ工場が本拠地になった。着いた日は、狭い事務室に布団を敷いてすし詰めで横になる。夜中、徳能夫人が赤痢のような症状を発して皆から心配されたが1週間ほどで回復した。やがて工場内の日本人官舎に移る。ここはオンドルも完備、風呂場やだいどころもあってやっと人間らしい生活に戻れた。

 小林たちが石峴の旧東洋バブル工場で製造したのは八路軍が戦闘に使う手榴弾だった。材料も工作用道具も近隣の旧日本軍工場からの調達だ。小林はオンボロの木炭車に八路軍兵士と同乗して、朝鮮国境の龍井へ行ったことがある。龍井には旧日本軍飛行場があり、木製の戦闘機が放置されていた。雑草を踏み分けて格納庫に入る。必要工具がきちんと仕分けして保管されている。日本軍隊の几帳面さだ。爆薬は日本軍が遺棄した砲弾や投下弾からTNT火薬を抜き取って使った。

 第二次留用組に加えられた学徒動員組の松本百公は1946年3月17日朝、八路軍とともに移動を開始した。石川少佐、重田中尉、板坂、松野両技手、工員の山中、川北、小林常雄、学徒動員の緒方、時吉、松本がメンバー。資材を積んだトラックが次々に出発。松野たちの乗ったトラックがその後を追った。

 東京陵付近で3人連れの人影と行き違った。板坂夫人が「あれは吹野さんたちよ」と指差す。長く遼陽で拘束されていた吹野信平、川原鳳策、松野徹が釈放されて東京陵に帰るところだ。これから八路軍と先行きの分からない旅をする松本たちと、八路軍に釈放され自由の身になった吹野ら3人。大きな声で別れを惜しんだ。

 峨嵋荘という村で八路軍の江涛政治委員と合流、列車で宮ノ原に着きそこから通化へ向かって馬車の旅となった。馬車旅の一日目に板坂技手の赤ちゃんが揺れる荷台で窒息死した。それが3月26日。政治委員の江涛は国民党軍の追跡を怖れて旅を続けようとしたが、日本人一行は赤ちゃんの遺体の火葬のため出発を延期することを要求。頑なな意思を察した江涛はこれを受け入れた。

 翌日警戒を厳重にして出発。警戒の兵士が国民党のスパイを2人逮捕する。情勢は緊迫しているようだ。しばらくして解氷期の河に馬車がはまって動けなくなる。若い松本たちが馬車の荷物を下ろし、馬車のわだちを手で回してなんとか河から脱出する。やっと通化への道の半分、興京という町に着いた。

 


by daisukepro | 2018-05-08 23:35 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(81) 18/04/02

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(81) 18/04/02

明日へのうたより転載

 次に医務関係の八路軍留用者について触れる。八路軍は本渓湖に野戦病院をつくったが医師や看護婦が足りない。東京陵病院からも日本人医務員を連れていくことになった。勝野六郎軍医にも本渓湖行きの要請があったが、老母や妻と3人の子どもがいるのを考慮されて留用を免れることができた。

 八路軍は当初、東京陵病院の勤務員全員の異動を考えていた。軍医の岡野憲介は「それはできない」と八路軍幹部に食らいついた。「病院が空になったら残った5千人の居留民はどうなる。私は進んで参加するからなるべく人数を絞ってほしい」。八路軍の姿勢は意外に好意的で「あなたが積極的に協力してくれるのなら絞れるだけ絞りましょう」と請け負い、人選は日本側に任された。

 留用者は2陣に分けられ、2月11日出発の第1陣は岡野憲介大尉、宗近敬止医学生、看護婦の横井キヨノ、内田照子、中村良子の5人。第2陣は2月19日出発で、生駒一彦医師、林医学生、荷宮文夫歯科医、看護婦の坂典代、須本佐和子、大塚智子、藤野、林田の8人。全員20歳代前半で独身だった。

 第1陣出発の前夜は大病室を使って盛大な送別会が開かれた。その席上岡野は「中共軍に同行する我々にはどんな運命が待っているか、どんな生活なのか全く分からない。前途の不安は大きい。しかしその点は残る諸君も同じだと思う。諸君と再びお会いできるかどうかも分からない。皆さんが一日も早く故郷の土を踏めるよう祈ってやまない」と挨拶。会場のあちこちからすすり泣く声が聞こえた。

 2月11日に東京陵を発った岡野たちはその日のうちに本渓湖近くの大安平というところに着いた。町には日本人の姿はない。空き家の旧日本人官舎に落ち着いて荷をほどく。とたんに岡野は悪寒がし、高熱を発して寝込んでしまった。移動中、酷寒に晒されたための感冒かと思ったが後に結核初期の肋膜炎と判明する。

 この病院は規模の大きい野戦病院で、大連から来た海軍軍医長や日赤の看護婦など多数の日本人が勤務していた。合計50~60人はいたろうか。旧火工廠の一行はすぐ勤務に組み込まれたが、岡野だけは病気治療のため病床に寝かされた。八路軍の態度は親切で、治療も適切で食事も優遇された。

 岡野は熱が下がったある日、点在する病舎を見て回った。患者はほとんどが戦傷者だ。治療は膏薬の塗布と包帯交換が主で、手術が行われている様子はない。X線設備もないようだ。岡野は東京陵病院にほとんど使われていない携帯用X線機器があったのを思い出した。病院には立派なX線設備がある。携帯用はこちらへ譲ってもらう可能性があるのではないか。その旨八路軍担当者に言うと早速東京陵まで使いを出し、了解を取りすぐ取り寄せた。この小型X線機器がこの後大きく役立つことになる。
 
 


by daisukepro | 2018-05-08 23:32 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(80) 18/04/30

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(80) 18/04/30

明日へのうたより転載


 松本百公は戦争末期に学徒動員され関東軍火工廠に配属された。中国語に堪能な青年である。もともとから火工廠を運営していた将校たちとは一味違った目で八路軍を観察していた。彼が「関東軍火工廠史」に寄せた「中共軍留用者第二次出発から帰国まで」と題する手記から「中共軍幹部の横顔」を見てみよう。

 《王篷原軍工部長は長春(旧新京)の出身。北京精華大学卒業の科学者で、自ら共産軍に参加。蘇文廠長は瀋陽市(旧奉天)の出身。昭和6年9月18日の満州事変勃発時は東北大学3年生。日本の暴挙を怒って中国本土に行き、共産軍に入る。また政治委員江涛は南方華僑を父に持つが、父の生き方に不満を抱く。自らシンガポールで沖仲士のような苦力を数年間経験したのち共産党に入党。政治工作員として人民解放の運動に従事。周明副廠長は日本に留学、東京工業大学在学半ばにして帰国し、共産軍に参加した。

 いずれの幹部にも共通して言えることは、共産主義・共産党が中国を救う唯一の道だと確信している点である。イギリス、ドイツ、フランス等欧州諸国は中国に対する侵略者、アメリカは領土的野心はないが市場としての中国を狙い、日本はアジアの国でありながら中国を植民地とする野望を逞しくしている。ただ社会主義ソ連邦のみが中国の友邦である。人民のために服務することを信条として、中国革命のために一身を捧げる、と彼らは常に明言する》。

 ちなみに松本は新中国建設後も残留し、中国政府から労働英雄の称号を贈られ1953年に帰国している。その間の経過については本稿でのちに綴ることにする。

 第二次留用組の板坂技手夫人静江は46年3月17日、乳児を抱き5歳の長女由紀子の手を引いて東京陵を馬車で出発した。弓張嶺というところで汽車に乗り本渓湖へ。そこからまた馬車の旅となる。長白山の麓を通行中、由紀子の体調が悪化。呼吸が止まったりまた動き出したりしていたが、大きな川原に着いたところでついに心臓が止まった。亡骸だけでも火葬にしてと政治委員の江涛にお願いする。馬車を止めて木材を積み重ね、石油をかけて火葬にした。一行の中の山中勇七郎が白木の骨箱をつくってくれた。

 8日目、長白山の雪解け水が氾濫し馬車が飲み込まれた。馬車には荷物の上に板坂夫人と乳飲み子の曄子だけ。馬夫が懸命に岸を目指すが濁流には逆らえない。板坂夫人はもうこれまでと覚悟を決め、曄子を抱きしめて岸の夫と長男に手を振った。その時八路軍兵士が5人、濁流に飛び込み馬夫と協力して馬車の向きを変えることに成功。やっと岸にたどり着いた。

 通化に着き、元満州製鉄の青山荘に旅装を解いた。翌日の夜、板坂夫人は曄子を抱いて、得能中尉と長男が亡くなった現場のお風呂に入った。以外に広くて清潔な風呂だが電気は暗かった。得能の長男が落ちたという熱湯の湯舟はもうもうと湯煙を立てていてまるで地獄の窯のようだ。板坂夫人は手を合わせ黙とうした。
 

 


by daisukepro | 2018-05-08 23:29 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(79) 18/04/26

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(79) 18/04/26

明日へのうたより転載

 
 まだ長く困難な旅が続く。引率の江涛は携帯品を減らすよう指示。荷物の多い板坂、石川は家財を半分ほどに処理せざるをえなかった。
 4月5日、通化の町を流れる川のほとりに出た。太子河の上流だという。1人の八路軍兵士が松本たちに対して重い口調で「2月、この川で多くの日本人婦女子が氷の割れ目に投げ込まれて殺されたのだ」と
漏らした。例の通化事件のことだ。八路軍兵士は「虐殺行為をしたのはは朝鮮人義勇軍だ」という。彼は話し終えると軽く目を閉じ、頭を振った。

 一行は通化市街を通りぬけて、丘の上に建てられた元満州製鉄通化支社の独身寮青山荘に向かう。そこには第一次留用組の小林、飯野、川北らがいて、暖かく迎えられた。

 通化に着いた翌日、松本は吉林、敦化、延吉方面への出張を命じられた。王蓬原軍工部長、蘇文廠長らが、ソ連軍撤退後の旧日本経営の工場を接収するのに同行するためである。日本人は松本1人である。一行は軍用車に分乗して吉林へ急ぐ。その日のうちに吉林に着いて早速工場に向かおうとしたが、ソ連軍の撤退が遅れて4月15日になるという。それまでの数日間を観光名所の北山で待機させられた。

 退屈なので吉林の街を歩いた。驚いたことに日本人が自由に商売をしている。生菓子、お寿司などお金さえあれば何でも買える。松本たちの宿舎に朝夕、日本婦人が子どもを背負って手巻きの煙草を売りにきた。日頃どんな暮らしをして生き延びているのだろう。辛い光景だった。

 やがてソ連軍が撤退し、満州電気化学工業、満州人造石油などの吉林市内の主要工場の接収が完了した。次は敦化である。ここではバルブ工場の接収にあたった。また旧日本軍飛行場整備工場も視察した。整備工場には14、5人の日本人職工がいたが、それらは敗戦直前に召集された男たちの留守家族で女子どもだけだった。

 松本は敦化駅前でボロを着た日本人に会い、彼の住居を訪れた。床ははぎ取られ、畳もなく、土間に板を敷いての生活だという。土間に麻袋にくるまって寝ている子ども。そぱに座り込んだ母親が「この子は栄養失調で今日死ぬか、明日死ぬか分からない。薬もなく、医者もいない。お金もないので食べ物も与えられない。ただ手をこまねいて死を待つだけです」と嘆く。涙もなくすっかり諦めた顔である。

 松本は重い気持ちを抱いたまま、蘇文たちに従い次の延吉へ行く。ここでは関東軍補給廠の接収が目的だったが、着いてみると既に壊されていて跡かたもなかった。さらに大同酒精の工場へ向かったがここも破壊されていて無人。壊れた醗酵槽の中で何かの液体がブツブツ泡を立てているのが不気味である。これでは接収は無意味だ。

 翌日、曲水というところに大きな鉄工所があると聞いて接収に行く。ここは朝鮮人が管理していて完全に保全されていた。八路軍軍工部一行は、曲水からさらに東盛湧、開山屯、琿春、図們、石峴、汪精などの工場調査と接収に出発したが、松本はここで彼らと別れ、日本人留用者のもとへ帰された。


by daisukepro | 2018-04-29 09:43 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(77) 18/04/22

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(77) 18/04/22

明日へのうたより転載

 間島は朝鮮との国境沿いを通化よりさらに北上した、山の多い地域である。戦時中、金日成率いる間島パルチザンが八路軍と組んで反日ゲリラ戦を展開した。夭折したプロレタリア詩人槇村浩の「間島パルチザンの歌」で日本でも有名だ。遼陽から間島へ。八路軍留用者は長てく辛い道のりを移動させられた。

 第一次留用者の1人小林新之助は2月24日午前10時、妻と6歳の長女光子を同伴して一行とともに唐戸屯を八路軍の軍用車に分乗して出発した。雪がちらつく寒い日だった。遼陽で乗った列車は窓ガラスも座席も無残に壊されている。荷物を無蓋車に積み込み、一般中国人でひしめく客車へ。立ったり床に座り込んだりして発車を待つ。鈍い汽笛とともに列車はゴトリと動きだした。

 名前は分からないがかなり大きな駅で止まった。給水のようだ。光子が小用に行きたいという。小林は光子を抱えてホームに降りた。用をたして戻ろうとしたら列車が動きだし、ホームを駆けだしたが間に合わない。途方に暮れていると線路の枕木を蹴って5~6人が戻ってきた。小林の妻が、夫と子どもが取り残されたと日本人責任者の徳能典通大尉に訴えて列車を停めてくれたのだという。

 その日の夜8時、宮ノ原というところで列車を降り2泊する。3日目に同駅を出て線路の終点のような辺鄙な駅に止まる。積雪を踏んで駅周辺の家へ。ここで再び2泊。朝早くガヤガヤ話し声がする。出発の準備が整ったという。馬車が全部で26台も並んでいた。7時に出発。男たちは不安定な荷物の上だ。

 雪が吹雪いてきた。平頂山付近を通る。午後4時頃大きな村落に着いた。電灯のない寒村である。灯油の灯りで夕食を済ませ、オンドルの上に布団を敷いて寝た。翌朝はまだ暗いうちに起き、粥を啜り、6時には出発。そんな日が7日ほど続く。遠くに大きな建物が見えた。大都市のようだ。馬夫は通化市だという。やがて市中の繁華な通りに出る。映画館らしい建物から音楽が流れてきた。

 馬車は繁華街を抜けて郊外へ。大きな橋を渡る。二道溝という地名のところに鉄条網で守られた旧日本企業の寮があった。「東辺道開発会社」青山荘の看板。2階建ての立派な施設だ。やっと長い旅が終わった。荷物を2階の広間に運び、雑魚寝ながら久しぶりに服を脱いで足を伸ばして寝る。ガラス障子の隙間風が気になったが疲れていたのですぐ眠りについた。通化では八路軍経営の化学廠に属し、石鹸を製造する仕事にとりかかった。そして4~5日が過ぎた土曜日の夜、その悲劇は起こった。

 その夜は週2回の入浴日だった。入浴は男女別に交代で日にちが決められており、この日は男子の番だ。徳能大尉が2歳の長男通孝を抱っこして浴場へ足を踏み入れた。浴場には入浴用の湯船と、湯が冷めた時に足す熱湯の湯船が並んでいる。その夜は運悪く停電で、浴場は3本のローソクの灯りしかない。湯船付近は真っ暗だった。「あーっ」突然徳能大尉の悲鳴。脱衣所で待機していた夫人が驚いて浴室の戸を開けた。夫が手から滑って熱湯に落ちた我が子を助けようと自分も飛びこんだ瞬間だった。
 


by daisukepro | 2018-04-29 09:39 | 爆風

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員) 爆風(76) 18/04/20

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(76) 18/04/20

明日へのうたより転載

 死者のほかにも一斉引き揚げに加われない人たちがいた。中国残留者(本稿では留用者と呼ぶ)である。留用者として八路軍に同行した人と国府軍同行者とではそれぞれ別の経過を辿っている。まず八路軍から見てみよう。

 1945年11月に火工廠を接収した八路軍は、当初この地での工場再建をするつもりだった。しかし、工場の主要設備、機材がソ連に持ち去られたのと、国府軍が迫ってきたこともあって火工廠での運営は諦めざるを得なくなった。仕方なく工場機能を通化に移し、通化での工場再開を図ることにする。46年2月、火工廠に残存する必要機材の搬出、日本人技術者の選抜が始められた。

 八路軍から留用者の人選を任された1人に第一工場の徳能典通中尉がいる。徳能は2月中頃のある日、唐戸屯の居留民会事務所を訪れ、以前部下だった技術者の川北辨吉を呼んだ。川北が来ると徳能はつかつかと川北のもとへ歩み寄り手を握って言った。「川北君お願いがあるんだが聞いてくれるか」「わたしでできることなら何でもします」「実は八路軍と同行することになった。私1人では仕様がないので技術者を10人ほど選んで欲しい」。川北は事の以外さに驚き、他の留用者を説得できるだろうかと迷った。

 《徳能さんも人選が困難なことは百も承知なればこそわざわざ唐戸屯まで来られたのだ。私ごとき者に最後の希望を託しておられる。昭和17年5月、宇治製造所より黄色火薬工場要員として渡満し、火工廠第一工場の徳能さんの指揮下に入った。その後唐戸屯の第二工場に移った私に、今苦しい胸の内を打ち明け協力を頼んでおられる。何か離れ切れない運命の絆があるのではなかろうか》。

 「川北君、僕を信じてくれ」と涙を流して手を握る徳能中尉に「私でよかったらお供します」と川北は固く手を握り返した。川北は徳能と別れ官舎に戻る。妻に事情を話して「おれは徳能中尉についていくが、お前は子どもたちと引き揚げてくれ」と頼んだ。すると妻に「私は川北家に嫁いだ者です。夫と行動を共にするのが妻の役目です。万一貴方が殺されるようなことがあったら私も子どもと一緒にお供します。任された人選をやり遂げてください」と心強く激励された。

 民会事務所に戻り、徳能が候補に挙げた飯野久夫、間下守、それから弟の川北恒一に事情を話して留用を依頼した。3人とも以外に簡単に承諾、家族の了解も得た。それから分散して若手の技術者に声をかけ、小林常雄、斉藤今朝蔵、丸山らを納得させた。このようにして八路軍要請の人数が揃ったのである。

 このようにして第一次留用者13人(うち女性1人)、第二次留用者8人が決まり、2月24日、通化へ向けて八路軍とともに出発した。しかし、その時点で通化も国府軍の攻撃に晒されており、一行は間島省方面に行き先を変更。4月30日には間島省汪精県石峴に着く。ここには旧ニッケ系東洋バルブ工場があり、八路軍はその敷地に工場を建てて手榴弾製造を開始した。
 


by daisukepro | 2018-04-29 09:36 | 爆風