1964年10月10日。東京五輪が始まったその日、生まれたばかりの私は母に抱かれ、東京・信濃町の病院を退院し、近くの大京町の自宅マンションに戻った。

 自衛隊機が青空いっぱいにスモークで描いた五輪マーク。街の方々ではためく国旗は、母の目から見ても晴れがましく映ったという。このあたりは五輪開催の中心ログイン前の続き部で、しばらくは街の盛り上がりが続いたようだ。

 現在89歳になる母は、東京五輪は敗戦後、あまり見られなくなった国旗掲揚を市井の人々が再び行う契機となったと話し、こんな逸話を教えてくれた。

 マンションの自治会の席上のことだ。ある老紳士が意気揚々、「ここは五輪会場に近い。ぜひ当自治会も国旗を掲揚いたしましょう」と提案した。すると母と何人かの若い住人がすぐに反対を唱え、たちまち大論戦となった。

 昭和ひとけた生まれにとって、国旗掲揚は戦時中の記憶そのものだった。学生のころ「国旗に最敬礼なさい」と居丈高に言い放った大人たちは、終戦となるや一転「国旗を揚げたら進駐軍ににらまれる」と慌てた。そんな様子を、少女だった母は不信感をもって見つめていたのだった。

 だが老紳士の提案は少し趣が違っていた。長らく米国に暮らし、戦後に帰国したという彼は、「戦時中に米国でつらい経験をした私にとって、故郷に戻り、国旗を掲げることは長年の夢でした」と語った。母たちは彼の話にほだされた。すったもんだの末、国旗の掲揚に賛同することとなった。

 その二十数年後。写真家になった私が、東京を歩いていて時折気になっていたのが、町内会単位で建設された国旗掲揚塔であった。

 例えば、渋谷区の北参道交差点付近の掲揚塔。国立競技場にも近く、劣化にあらがいながら次の五輪を待っているようにも見えた。だが、区役所の出張所の移転を契機に取り壊されてしまった。

 JR代々木駅前の交番脇にもある。30メートルはあろうかという掲揚ポールがサビだらけになりながらそびえ立つ。休日に何度か来てみたが、国旗が揚がった様子はついぞ見なかった。座って一杯飲む人がいるのか、台座には日本酒のカップ酒の空き瓶が転がっていた。

 新宿区の馬場口交差点は、早稲田通りと明治通りが交差している。明治通りと並行する細い脇道にある掲揚塔を撮影していると、近所の女性から話しかけられた。「五輪のときは街中で盛りあがったけど。その後国旗が掲げられたのを見たことがないわ」。先の五輪当時24歳だったという女性は、プレートが新しいのは大会後につけられたのではないか、という。

 新幹線や首都高速は、64年の「レガシー」として認知されている。だが、多少なりとも興奮の演出に役だったであろう国旗掲揚塔は今、道行く人が、それが何だったのかさえ気にも留めない存在だ。2度目の五輪を迎える街に、ひっそりとただ在る。(寄稿)

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 まるた・しょうぞう 1964年生まれ。東映勤務の後に独立。94年「棄景」で日本写真協会新人賞。写真集に、朝日新聞東京本社版夕刊の連載をまとめた「東京幻風景」や「廃道 棄てられし道」など。