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カテゴリ:歴史( 19 )

連載「植民地支配 歴史と実態」を読んで 軍国少女だった私もあまりにひどいと思った 戦前朝鮮での体験 元台東区議 五十川チトセさん

連載「植民地支配 歴史と実態」を読んで

軍国少女だった私もあまりにひどいと思った 戦前朝鮮での体験

元台東区議 五十川チトセさん

 「いま振りかえる 植民地支配 歴史と実態」を読んで、東京都台東区在住の五十川チトセさん(88)から「真実を広めなければならないと改めて痛感した」と感想が寄せられました。次に紹介します。五十川さんは日本共産党の元台東区議会議員。


 嫌韓・反韓一辺倒の報道のなかで、この連載を載せていただいて、ありがとうございました。

 私は2歳で朝鮮、今の韓国に渡り14歳で敗戦により引き揚げてきたので故郷と言えるのは韓国以外にはありません。大本営発表に何の疑問も持たない軍国少女だった私にもあまりにもひどいと思われたことが幾つかありました。

名を奪われた人

 太平洋戦争が始まった頃の朝鮮人小学校の廊下に1メートル置きくらいにステッカーが貼りめぐらされていました。「国語ヲ使イマセウ 朝鮮語ヲ使フ人ハ国賊デス」と書かれていたのです。その頃には1週間に1時間だけあった朝鮮語の時間もなくなって、朝鮮人小学校でも授業は日本語だけでした。

 創氏改名で強制的に日本式の姓名に変えさせられていました。教員だった父は、生徒が自分の名前の一字をとって改名したと喜んでいましたが、私は名前を奪われた人々の気持ちを考えていました。

 小学校卒業後に入った女子師範学校は、4年卒業で教員資格がとれる尋常科と高等女学校卒業後1年で資格がとれる講習科があり、皇国臣民化教育を担う教員を即席で育てる学校でした。「内鮮一体」を掲げて内地人と朝鮮人を半々に採ると言いながら、実際には内地人を少し余計に採っていました。

 授業料も寮費もいらず、月5円の官費が支給されていましたから、経済的に苦しい家庭の子どもが殺到し、朝鮮人の競争率は高く、私の1年上の学年では成績1番から10番までが朝鮮人だと言われていました。

 引き揚げてきて乗った山陰本線沿線の山々に真っ赤な柿の実がたわわに実った柿の木がたくさんあるのを見て「ああ内地に帰ったんだ」と実感しました。朝鮮では塀の中以外で柿の実が赤くなったのを見たことがなかったのです。朝鮮の野山にも柿の木はたくさんありました。でも花のうちに食べられてしまうので野山で柿を見ることはなかったのです。

 朝鮮には梅雨が無く、干ばつが多いので食料が足りず花でも何でも食べられるものは食べなければ生きていけなかったのです。松葉も粉にして食べ、松の木の堅い皮をはがして柔らかい皮も食べられる、戦争で食料が無くなったら君たちも食べるんだと先生に教わりました。南朝鮮は農業地帯で広い田んぼや畑が多かったので、農作物は内地や戦地に召し上げられたのではないかと思っていました。

言葉さえも否定

 毎年3月に東京大空襲資料展を浅草公会堂で開いています。何年か前に来場した70代くらいの男性が「韓国というのはひどい国だ」と声をかけてきたので、「日本が植民地にしてひどいことをしたのですから」と言ったら、「その植民地というのが間違っているんだよ。ちゃんと併合条約で対等に合併したのだから植民地なんて言うのが間違いなんだ」と言われました。「植民地」という言葉さえ否定されたのは初めてだと思っていたら、最近では安倍首相一派の考えなのだと知らされました。

 嫌韓・反韓の攻撃に負けないで真実を広めなければならないと改めて痛感しています。




by daisukepro | 2019-09-18 12:01 | 歴史

いま振りかえる 植民地支配 歴史と実態 番外編 日本メディアはどう伝えてきたか

2019年9月18日(水)

いま振りかえる 植民地支配 歴史と実態 番外編

日本メディアはどう伝えてきたか

 日韓関係の深刻な悪化が続く中、メディアの異様な報道が目立ちます。TVをつければワイドショーが嫌韓・反韓をあおる、週刊誌を開けば「韓国なんて要らない」「ソウルは3日で占領できる」などという物騒な活字が目を奪う…。こんな無残な姿を見るにつけ、メディアのあり方が問われます。戦前、戦後を通じて、朝鮮植民地支配にどう対応してきたか、検証します。

(近藤正男)


 今日のメディアの異常な姿が始まったのは、昨年秋の韓国大法院(最高裁判所)による「徴用工」裁判での判決がきっかけです。日本の植民地支配の不法性と反人道的行為を正面から問うた判決に対し、安倍政権は「解決済み」「国際法違反」などと居丈高に判決を拒否し、韓国政府批判を開始しました。これと同一歩調をとるように、日本のメディアもまた、「両国関係を長年安定させてきた基盤を損ねる不当な判決」(「読売」)、「日韓関係の前提覆す」(「朝日」)などと一斉に判決と韓国政府を批判するキャンペーンを展開しました。

戦前の朝鮮報道

国家と一体に差別・抑圧


(写真)三・一運動を「暴動」「暴徒」と報じる日本の新聞(1919年3月7日付「朝日新聞」)

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(写真)日韓会談中断を報じる「朝日」(1953年10月21日付夕刊)

 徴用工問題は侵略戦争・植民地支配と結びついた重大な人権問題です。日本政府や当該企業はこれら被害者に明確な謝罪や反省を表明していません。被害者の名誉と尊厳の回復という立場から日韓双方が冷静に話し合うことが求められているときに、日本のメディアは政権の強硬姿勢に同調し、解決の糸口を探すのではなく対決をあおるような報道に走っているのです。その根底にあるのは、「韓国併合」に始まる朝鮮植民地支配にどういう態度をとったかという問題です。

 戦前の主要メディアによる朝鮮報道の特徴は、植民地支配への批判的視点を欠くだけでなく、国家権力と一体となって朝鮮人差別・抑圧の片棒を担いだことです。

 1910年8月の「韓国併合条約」は、日本が韓国に対し軍事的強圧によって一方的に押し付けた不法・不当な条約です。ところが併合に際し日本の主要メディアで反対を主張したものはありませんでした。逆に、古来、日本と朝鮮は同祖同根だったとか、朝鮮王朝の悪政で朝鮮独立が不可能になった、日本の天皇が朝鮮人の幸福増進に手を差し伸べるもの、などといった身勝手な併合正当化論を展開しました。

 この時期の有力新聞、総合雑誌の社説・論説のすべてが韓国併合を美化し、こじつけ議論で併合を正当化した―当時の新聞雑誌の論調を精査した歴史学者の姜東鎮元筑波大学教授は指摘します(『日本言論界と朝鮮』法政大学出版局)。メディアが作り上げた「世論」は併合の侵略的本質を隠しただけではありません。韓国併合は朝鮮人にとっても善政を施したという誤った認識を日本人の間に持ち込み、今日も強く残る植民地正当化の居直り・無反省の原点になっています。

 天皇制政府による強圧と専制にたいし、韓国・朝鮮人民の怒りが噴き上がったのが、1919年の「三・一運動」に示される一大独立闘争です。日本の新聞はこれをどう報じたか。「日本では、大部分の新聞は政府や軍部の発表に基いて三・一運動を報道した。したがって、朝鮮民衆を『暴徒』『暴民』視するのが一般的であった」と歴史学者の趙景達氏はいいます。(岩波新書『植民地朝鮮と日本』)

 三・一運動の参加者を「暴徒」「不逞(ふてい)鮮人」「土民」などと呼び、朝鮮人に対する恐怖や敵対心を日本人に植え込むことになりました。権力と一体となったメディアの朝鮮報道の行き着いた先が、1923年9月、関東大震災での朝鮮人虐殺の悲劇でした。

戦後も批判欠く姿勢

非を認めない政府を擁護

 植民地支配への批判的視点を欠いた日本のメディアの姿勢は、戦後も続きます。

 1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾し、植民地朝鮮を解放しました。しかし、日本政府はその直後から、過去の非を認めず、朝鮮支配は正しかった、日本はいいこともしたという態度を打ち出しました。戦後一貫した日本政府の基本的立場です。これが端的に表れたのが、1950~60年代にかけての日韓国交正常化交渉における、いわゆる「久保田発言」「高杉発言」でした。

 「日本は朝鮮に鉄道、港湾、農地を造った」「多い年で二〇〇〇万円も持ち出していた」。53年10月、日韓会談が長期にわたり中断する原因となった第三次会談の日本側首席代表、久保田貫一郎の発言です。韓国側の激しい反発にあい、会談決裂、中断したのは当然です。ところが、日本のメディアは久保田発言を批判するどころか、「ささたる言辞」「韓国の不条理な威嚇には屈しない」「朝鮮統治には功罪両面がある」などと発言を擁護しました。当時の新聞論調について研究者は「全新聞が韓国に非があるという認識であった」と分析しています。

 「日本は朝鮮を支配したというけれども、わが国はいいことをしようとした」「それは搾取とか圧迫とかいったものではない」。交渉最終盤の65年1月、第七次会談首席代表の高杉普一による妄言は、交渉決着への影響を懸念した日韓両政府によってオフレコ扱いとされ、日本の商業メディアは取材しながら黙殺しました。

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(写真)「日出新聞朝鮮双六(すごろく)」(1911年、民族問題研究所所蔵)韓国併合が「上り」になった双六。三韓「征伐」や朝鮮「征伐」、耳塚、伊藤博文などがコマに

 同年6月、日韓条約は日本政府が植民地支配の不法性を認めようとしないなか、歴史問題が未決着のまま締結されましたが、この視点から日韓条約・諸協定を批判する日本のメディアはありませんでした。朝日新聞「検証・昭和報道」取材班は、条約調印を受けての自社社説について「…しかし植民地支配に対する日本の責任には触れていない」と指摘しています。(朝日文庫『新聞と「昭和」』)

 植民地支配への批判的視点を欠いた日本のメディアの弱点は、その後も日韓間で問題が起きるたびに表面化します。戦後70年に当たっての安倍首相談話でもその体質が現れます。この談話で首相は、暴力と軍事的強圧で朝鮮半島の植民地化をすすめた日露戦争を「植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と賛美しました。歴史を乱暴にねじ曲げ、植民地支配への反省どころか韓国併合そのものの美化・合理化にほかなりません。

 しかし、日本の主要メディアは、村山談話の否定・後退を批判的に論じたものはあったとしても、韓国・朝鮮人民への配慮を欠いた日露戦争美化・礼賛に言及し正面から批判するものはありませんでした。

異常報道過熱に懸念も

冷静議論へ問われる姿勢

 今日、異常報道が過熱したのは、安倍政権が徴用工判決への対抗措置として、対韓貿易規制の拡大という政経分離の原則に反する“禁じ手”を強行したためです。ここでも日本のメディアは、被害者の名誉と尊厳を回復する責任を放棄した安倍政権の問題には目を向けず、「文政権は信頼に足る行動とれ」「発端は徴用工判決にある」などとの対韓批判を続けています。

 その一方で、メディアの無残な姿を懸念し、他国への憎悪や差別をあおる報道はやめようという世論も広がっています。新聞労連が、戦前の過ちを繰り返さない、かつて商業主義でナショナリズムをあおり立てた「報道の罪」を忘れてはならないとし、「今こそ『嫌韓』あおり報道と決別しよう」と訴えたことは、その表れです。歴史の真実に向き合い冷静な議論への役割を果たせるか、いまメディアも問われています。



by daisukepro | 2019-09-18 11:06 | 歴史

官民一体の迫害が蓄積 関東大震災朝鮮人虐殺 記憶する集会

官民一体の迫害が蓄積

関東大震災朝鮮人虐殺 記憶する集会

 1923年9月の関東大震災で起きた朝鮮人虐殺の事実を記憶していこうと15日、東京都内で集会が開かれました。記念講演した法政大学社会学部の慎蒼宇(シン・チャンウ)教授は、虐殺が官民一体で行われたことを指摘し、その責任を被害者側の視点で問う必要性を強調しました。

 慎氏は、大震災時の関東戒厳司令部に、朝鮮での義兵戦争や三・一独立運動などで虐殺、弾圧を指揮してきた人物がいたことを詳細な資料を使って説明。また全国の歩兵連隊が朝鮮に駐留し「暴徒討伐」などに参加した経験があると述べ、関東での朝鮮人虐殺をはじめ地方にも流言が広がり事件が起きたことは、「偶然でも天災でもない。植民地支配を通じて、官民一体の迫害経験・正当化論の蓄積で起きたものだ」と告発しました。

 さらに、日本の責任が現在も問われていないことに言及。慎氏は帝国主義時代の「植民地戦争」は、植民地にする側と植民地にされた側の両者をとらえ考える必要があると述べ、「植民地支配の過酷さ、正義を問うには、された側からみなければいけない。その前提は常に(植民地支配の)不法性がなければならない」と強調しました。

 集会は、「1923関東朝鮮人大虐殺を記憶する行動」発足の集いとして開かれ、宣言文を発表しました。2023年には虐殺から100年を迎えることを受け、植民地支配による加害と被害の歴史を清算し、日本と朝鮮半島の真の友好を築くための行動を開始すると述べました。




by daisukepro | 2019-09-17 18:55 | 歴史

シリーズ 日韓関係を考える 戦争責任と向き合う独 元NHK欧州総局長

シリーズ 日韓関係を考える

戦争責任と向き合う独

元NHK欧州総局長 大貫康雄さん

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 安倍政権が打ち出した韓国への輸出規制措置によって日韓関係は急速に悪化しています。中でも、日本の国内世論がマスコミにあおられ韓国を「敵視」する風潮を強めていることは問題です。

 2日に発売された『週刊ポスト』(9月13日号)の特集「韓国なんて要らない」に大きな批判が寄せられていますが、こうした嫌韓ムードに便乗した報道が散見し、不必要に国民感情をあおっています。実際に、駐日韓国大使館の郵便受けが破壊されたり、銃弾が同封された脅迫手紙が送りつけられる事件も起きています。それほどに嫌韓感情が極まっている危険な状態です。

 このような状態に陥ったのは、日韓基本条約と、それに基づく「日韓請求権協定」の解釈について日韓両国で隔たりがあるからです。安倍政権は徴用工問題は「解決済み」と繰り返し強調していますが決してそうではありません。個人の賠償請求権については、両国の政府、裁判所は一貫して認めているため、被害者の賠償請求を拒むことはできません。

 そもそも徴用工の訴訟は民事訴訟であり、まずは日本企業が判決にどう対応するかが問われるべきです。しかし、そうした企業に対して被害事実の認識を問おうとするメディアはほとんどありません。現在のマスコミにはこうした関係悪化を招いた日本社会を自己検証するという発想が決定的に欠けています。

 自己検証という点では、かつて日本が韓国を侵略した植民地支配の歴史とさまざまな損害や苦痛を与えたことを認め、反省する立場にたつことも必要です。日本と韓国の関係はドイツとポーランドの関係と重なります。ドイツは日本と同様、隣国を侵略し、多くの人を虐殺した歴史を持つ国です。ポーランドはいまだにドイツの侵略による損害賠償が不十分だとして請求していますが、ドイツはこれには応じていません。

 しかし、ドイツのシュタインマイヤー大統領は9月1日ポーランドで開催された、ドイツ侵略から80年の戦争犠牲者を追悼する式典に出席し、「過去の罪の許しを請う。われわれドイツ人がポーランドに与えた傷は忘れない」と謝罪をしています。これにポーランドのアンジェイ・ドゥダ大統領は「この式典がポーランドとドイツの友好の歴史に残るものになると確信している」と感謝を示しました。

 たとえ両国に隔たりがあったとしてもドイツは過去を否定することはなく、こうした外交努力を重ね、常に戦争責任と向き合ってきました。日本が見習うべき姿ではないでしょうか。

 聞き手・中野侃

 写真・橋爪拓治


by daisukepro | 2019-09-17 11:17 | 歴史

いま振りかえる 植民地支配 歴史と実態(1) 脅迫と強圧で実現した「韓国併合

いま振りかえる 植民地支配 歴史と実態(1)

脅迫と強圧で実現した「韓国併合」

 「清日戦争、露日戦争、満州事変と中日戦争、太平洋戦争にいたるまで、60年以上にわたる長い戦争が終わった日」。韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は、日本の植民地支配から解放されたことを記念する光復節(8月15日)の演説でこう述べました。戦前の日本帝国主義による侵略と36年間の植民地支配は、韓国の人々から国を奪い、人間の尊厳を奪い、言葉や名前すら奪いました。韓国国民の中にその傷痕と怒りは今も消えていません。日韓関係を改善するうえで、加害者である日本が過去の植民地支配にどう向き合うかは決定的です。日本の植民地支配はどのように進められたのか、改めて考えます。

 (若林明)


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(写真)ソウルにある植民地歴史博物館で展示を見学する人たち=2018年12月(栗原千鶴撮影)

日清戦争と日露戦争

朝鮮支配めぐる侵略戦争

 明治維新から10年もたたない1875年、日本は江華島事件を起こしました。軍艦をソウルの入り口の江華島まで行かせて、衝突を挑発し、砲撃戦で砲台を占領し、大砲などを強奪。翌年、日本は朝鮮に不平等条約を押しつけました。これを機に日本は朝鮮への圧迫を続け、本格的な侵略に乗り出したのが日清戦争(94年)でした。

 当時、朝鮮では官吏の腐敗と重税に反対して東学農民運動が起こっていました。運動は朝鮮半島の南西部の中心都市・全州を実質的に統治するほど力を持ちました。

 そのとき日本は、朝鮮王朝の要請もないのに、東学農民運動への対応を口実に大軍を朝鮮に派兵し、ソウルを制圧。開戦直前の朝鮮王宮を軍事占拠し、国王と王妃を拘禁しました。そして、軍事的脅迫のもとで朝鮮に日本への協力を約束させたのでした。同時に、日本軍は農民軍の大量虐殺を行いました。その犠牲者は3万人、あるいは5万人に迫ると言われています。

 日清戦争に勝利した日本は下関講和条約(95年4月)で朝鮮への清国の影響力の排除を約束させますが、同条約で日本へ割譲をきめていた中国の遼東半島を、ロシア・フランス・ドイツの要求で清国に返還せざるを得ませんでした。朝鮮での覇権を失うことを恐れた日本は同年10月、公使の三浦梧楼の指揮のもとに軍人らが王宮に押し入り、日本への抵抗の中心であった明成皇后(閔妃(ミンピ))を殺害し、遺体を井戸に投げ込むという暴挙を行いました。こうして日本は朝鮮の植民地化への一歩を踏み出しました。

 日露戦争(1904年)は、韓国(1897年に大韓帝国に改称)と中国東北部をめぐる日露双方からの侵略戦争=帝国主義戦争でした。

 日本は開戦と同時にソウルを軍事占領した上、韓国に「日韓議定書」を強要し、日露戦争への協力を約束させました。さらに、「第1次日韓協約」で、日本政府の推薦する「顧問」を韓国政府に押し付け、財政と外交の事実上の実権を握りました。

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(写真)第2次日韓協約締結時の日本と韓国の首脳(『画報日本近代の歴史7』から)

不法・不当な「併合」条約

どう喝・拉致・監禁下で

 日露戦争後、韓国に対する日本の覇権は無制限になっていきました。韓国の外交権を取り上げた第2次日韓協約(韓国保護条約)は、日本による軍事的強圧のもとで締結されました。

 特派大使の伊藤博文(初代首相、後に韓国統監)は「もし拒否するのであれば、帝国政府はすでに決心している。その結果はどのようなことになるか」(「伊藤特派大使内謁見始末」)と韓国の国王を脅迫。韓国政府の閣議の場に憲兵を連れて乗り込み、協約締結をためらう韓国の大臣を「あまり駄々をこねるようだったらやってしまえ」とどう喝しました。

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(写真)全国に拡大した反日義兵運動の兵士(『画報日本近代の歴史7』から)

 さらに、日本の特命全権公使の林権助は回想『わが七十年を語る』で、韓国側の大臣が逃げないように「憲兵か何かを予(あらかじ)め手配しておいて、途中逃げださぬよう監視してもらいたい。勿論(もちろん)名目は護衛という形をとるのです」などと、事実上の拉致・監禁下での交渉であったことを記しています。

 この条約で、日本は韓国に「統監府」をおき、属国化を進め、1910年に「韓国併合条約」を押しつけました。

 当時の国際法でも国家の代表者を脅迫しての条約は無効でした。しかも第2次日韓協約で韓国から外交権を奪っておいて、条約を締結させたのですから二重三重に「不法・不当」なものでした。

「義兵闘争」「独立運動」

抵抗する民衆 徹底弾圧

 しかし、日本の乱暴な植民地化に朝鮮の民衆は抵抗し、1906~11年には「反日義兵闘争」が韓国全土に広がりました。これに対して、日本軍は村々を焼き払い、義兵を大量に殺害し、日本軍に非協力的な民衆を見せしめに殺傷しました。

 19年3月には、日本の侵略に抵抗を試みた前皇帝・高宗(コジョン)の死をきっかけに、植民地支配からの独立を目指す「三・一独立運動」が起こりました。ソウルで始まった運動は朝鮮全土に拡大。数百万人が参加したと言われています。この運動に対しても日本は徹底的に弾圧を行い、1年間で死者7千人、負傷者4万人、逮捕者は5万人に及びました。

 戦後、日韓請求権協定(65年)の交渉で日本代表は「韓国併合」を不法・不当なものとは一切認めませんでした。それは、軍事的強圧のもとに締結したことを正当化する、国際的にも恥ずべき態度でした。

安倍「戦後70年談話」

反省語らず日露戦争美化

 ところが安倍晋三首相は「戦後70年談話」(2015年)で、自らの言葉としては「侵略」「植民地支配」への反省を語らず、朝鮮の植民地化を進めた日露戦争について「植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と美化しました。

 日露戦争直後に、ロシアの敗北を帝国主義の抑圧に苦しむ諸民族から歓迎を受けたという事実はありますが、すぐに真実は明らかになります。インドの独立・建国の父の一人、ジャワハルラル・ネールは『父が子に語る世界史』で「その(日露戦争)直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をくわえたというにすぎなかった。そのにがい結果を、まず最初になめたのは、朝鮮であった」と指摘しています。

 このシリーズは今後、植民地支配の実態(第2回)、戦後日本政府の認識(第3回)、植民地主義をめぐる世界の流れ(第4回)を掲載します。



by daisukepro | 2019-09-09 05:57 | 歴史

特別寄稿/『反日種族主義』に反論する(1)植民地近代化論   

特別寄稿/『反日種族主義』に反論する(1)植民地近代化論 
 
日帝強制占領期間に所得不平等が深化 
開発利益は日本人に集中し 
朝鮮人は飢え続け 
解放後も長い間貧困に苦しんだ

イ・ヨンフン元ソウル大教授らが書いた『反日種族主義』が論議を呼んでいる。この本は、10万部近く売れベストセラー1位に上がった。「日帝は朝鮮を収奪しなかった」「強制徴用はなかった」 「日本軍“慰安婦”らは性奴隷ではなかった」などの極端主張が流布され、政府の高位公務員が「親日することが愛国」と言うまでに達した。この本で最も問題となる植民地近代化論、強制動員、「慰安婦」問題に関し、各分野の専門家の寄稿を3回にわたり掲載する。

ホ・スヨル忠南大学経済学科名誉教授//ハンギョレ新聞社

 2005年4月、日本の極右新聞と呼ばれる産経新聞の姉妹誌「正論」という雑誌に、ハン・スンジョ元高麗大学教授(政治学)が「親日行為がすなわち反民族行為か?」という寄稿を載せ、韓国が沸きかえったことがある。当時制定された「日帝強制占領下の親日反民族行為真相究明に関する特別法」が、このような寄稿文を書いた直接的契機であった。一部の新聞では「日本の植民支配は祝福」という刺激的なタイトルで報道したことにより、ハン教授は世論の厳しい叱責を受けた。彼の主張の中には、植民地近代化論の特徴がそっくり含まれていた。そこでイ・ヨンホ仁荷大学教授(史学科)は、これを「植民地近代化論のカミングアウト」と述べた。

 植民地近代化論は、社会的イシューになるたびに世論で一斉に叩かれたが、忘れた頃には必ず飛び出してくるようだ。植民地近代化論を主張する学者が書いた『反日種族主義』もまた同じだ。この本を読んで、洪準杓(ホン・ジュンピョ)前自由韓国党代表は「保守右派の基本的考えにも外れる内容」と述べ、チャン・ジェウォン自由韓国党議員は「本を読む間、激しい頭痛を感じた」と話した。それほどこの本は保守・進歩を問わず大多数の韓国国民の普遍的常識とはかけ離れている。

日本植民地時代に朝鮮の少年たちが作ったかますを売る市場の様子。学校では貧しい子どもたちにかますを作らせ学費の足しにする児童強制労働をさせた。朝鮮総督府は、米を収奪するためにかます作成を細かく計画し管理した=ソウル特別市史編纂委員会『写真で見るソウル2』//ハンギョレ新聞社

 それにもかかわらず、植民地近代化論者などは臆するところがない。それは“不都合な真実”かもしれないが“客観的事実”であるためだということだ。そのため学者的良心からそのように言うほかはないということだ。ハン・スンジョ教授は、韓国の代表的政治学者のひとりであったし、『反日種族主義』の著者も高い学問的水準を持っている学者だ。彼らは自分の主張を裏付ける論拠を持って主張しているのであって、感傷的に主張しているのではない。

 植民地近代化論という用語は、国史学界がかぶせたフレームのようなものだと言って植民地近代化論者本人たちは特に満足していないようだ。そのためこの用語を使うのは慎重になるが、本人たちが自分たちの学問思潮に対して特に何か規定しているわけでもないので、便宜上この用語をそのまま使うことにする。

 植民地近代化論というのは、だれか一人の見解ではなく、さまざまな研究者による集合された考えだ。研究者の専攻も経済学だけでなく、歴史学、政治学、社会学などとても多様で、研究対象の時期も朝鮮末期から現在に至るまで多様だ。そのため共通分母を探すことは容易でなく、ややもすれば一般化の誤りを犯しかねないが、時期別に植民地近代化論の主要な主張を要約してみると、次のとおりになる。

(1)朝鮮末期社会が生産力の崩壊とともに自滅するしかない危機に置かれていた。

(2)日帝強制占領期間、日本から近代的なさまざまな制度が導入され、先進的な資本が大挙投入されることによって朝鮮が急速に開発され、その結果朝鮮人の生活水準も向上した。

(3)このような植民地的開発の経験と遺産が、解放後の韓国経済の高度成長の歴史的背景になった。

鉄道・道路拡充で耕地・生産性拡大
植民地近代化の根拠を提示するが
所得分配は独占・不平等の拡大再生産

 日帝強制占領期間の資料を読めば、その当時植民地朝鮮で注目すべき開発が行われたことを簡単に識別できる。近代的な日本の法が朝鮮に適用された。市場制度が発展した。鉄道・道路・通信・港湾などの社会基盤施設が拡充された。先進的技術を持っている日本の資本が大挙投入されて、工場と鉱山が建設された。河川が改修された。農地改良と農業改良によって耕地面積が拡大し、農業生産性も上がった。都市計画と上下水道施設が普及した。こうした証拠はこの他にも逐一数え上げられないほど溢れている。

 不都合な真実はここから生じる。「こうした近代的なさまざまな変化が植民地朝鮮を開発させただろうし、その開発のおかげで朝鮮人も少しは豊かに暮らせたのではないだろうか」という気がしてもおかしくない。「日本人たちが開発の利益の多くの部分を持っていったと言っても、朝鮮人にも少しはおこぼれがあっただろうし、それで朝鮮人も多少は豊かに暮らせたのではないか」と考えることもできるということだ。

 ところが、朝鮮が開発されたということと、それが朝鮮人にとっても利益になったという論理展開の中には、論理の飛躍という落とし穴がある。朝鮮という地域の開発と、朝鮮人の開発を区別できない飛躍だ。日本人たちは猛烈な速度で朝鮮の土地を掌握して行き、鉱工業資産は90%以上が日本人たちの所有であった。少数の日本人が土地や資本のような生産手段を集中的に所有したので、所得分配が民族別に不公平にならざるをえなかった。こうした不公平な所得分配構造は、日本人たちにより多くの生産手段を所有できるようにし、それが所得不平等を拡大させた。こうした民族別不平等の拡大再生産過程が、植民地時代に朝鮮で広がっていた開発の本来の姿だった。

 不公平な開発は民族差別を拡大させた。朝鮮の開発は日本の、日本人による、日本人のための開発であったため、本来この地の主人だった朝鮮人はそうした開発の局外者に過ぎなかった。歳月が流れますます民族別生産手段の不平等が拡大して、経済的不平等が拡大するいわゆる「植民地的経済構造」に閉じ込められることになった。したがって、植民地体制が清算されない限り、朝鮮人は植民地的経済構造から抜け出すことができず、未来に対する希望も持てなくなった。解放がまさにこの植民地的経済構造から脱皮できる唯一の道だった。まさにそうした点で、民族独立運動が何よりも重要で大切だった。筆者が以前に書いた本に、『開発なき開発』という一見形容矛盾したタイトルを付けた理由もそこにあった。

 筆者の話が反日種族主義のドグマを抜け出せなかった極端主張と聞こえるだろうか? 筆者は長い間、植民地近代化論が得意とするその実証により植民地近代化論を批判する論争を無数に行ってきた。紙面の制約のために、ここでその多くの実証を具体的に扱うことはできない。多くの実証的論争の中で、最も重要で簡単に説明できる一つの指標を挙げて植民地近代化論の主張が事実でないことを証明してみることにする。

「強制占領期間、朝鮮人の背が高くなった」という主張
過去100年余り、食品需給表統計には
1918~1945年栄養供給量減少傾向
所得が増加したという命題は成立しない

 植民地近代化論は、「日帝強制占領期間に朝鮮で行われた開発の結果、朝鮮人の生活の質も高まった」と主張する。「日帝強制占領期間に朝鮮人の背が高くなった」という主張もここから派生したものだ。植民地近代化論の最も主要な主張の一つだ。『反日種族主義』の筆者の1人である落星台(ナクソンデ)経済研究所のチュ・イクジョン研究委員の研究によれば、日帝強制占領期間に朝鮮人1人当たりの国内総生産(GDP)が60%以上増加し、1人当たりの消費も大きく増加したという。日帝強制占領期間に朝鮮人の生活水準が向上したという主張だが、これは落星台経済研究所が出した「韓国の経済成長1910~1945」という研究結果を土台にしている。果たしてこうした主張は妥当だろうか?

 忠南大学のユク・ソヨン博士は、1910~2013年の食品需給表を利用して、朝鮮(韓国)の1人1日当たりの栄養供給量の変化を分析した。韓国農村経済研究院は、食品需給表を1962年以来現在まで毎年公表している。ユク博士は、食品需給表が存在しない1910~1962年に対する食品需給表を追加して、その時系列を1910年までさかのぼった。この食品需給表から、1人1日当たりのエネルギー、蛋白質、脂肪質、無機質(Ca,Fe)、ビタミン(A,B1,B2,Niacin,C)などの栄養供給量が分かる。エネルギー、蛋白質、脂肪質など主な栄養供給量を中心に、その分析結果を整理してみれば次のグラフになる。

1人1日当たりの栄養供給量(資料:ユク・ソヨン「食品受給表分析による20世紀韓国の生活水準に関する研究」、2017)点線=タンパク質 細線=脂肪質 太線=カロリー//ハンギョレ新聞社

 グラフからわかるように、1918年までは栄養供給量が増加したが、その後1945年までは減少傾向を見せ、解放後に反転して明確な増加傾向を見せている。1990年代中盤以後のエネルギー供給量と蛋白質供給量がほとんど停滞しているのは、この時期になればダイエットが主な関心事になるほど栄養供給がすでに飽和状態に到達したことを意味する。

 日帝強制占領期間に朝鮮人の所得は非常に低い状態だった。この期間に朝鮮人の所得が増加したと仮定してみよう。低い所得のために食べ物をまともに食べられなかった時期、すなわち常に空腹だったそのような時期には、所得が増加すれば当然何より先に食べ物を求めるので、食物消費量は増えるだろう。栄養供給量が増加しなければならないという話だ。ところが、グラフを見れば日帝強制占領期間に栄養供給量は減少していたので、朝鮮人の所得が増加したという命題は成立しえない。

 一般的に人々の身長は、長い場合で二十歳まで伸び、その後は成長を止める。身長と成長期の栄養供給量の間には強い相関関係があるという。成長期によく食べれば、そうでない場合に比べて平均身長が高くなる。日帝強制占領期間に栄養供給量が減少したということは、平均身長が高くなったと主張するすべての研究が事実でない可能性が高いことを強く示唆する。

 留意すべき点は、1918年までの増加傾向だ。筆者は、この増加が朝鮮が日本の植民地になった直後の初期統計が持つ問題点のためであり、現実ではないと主張してきた。同時に、この期間の経済成長をめぐって植民地近代化論とすでに多くの論争を繰り広げてきた。結論的に言えば、1910~1918年の間にも栄養供給量は減少または停滞したと見てこそ正しいというのが筆者の考えだ。筆者の主張が信じられないならば、争点となる期間を論外にするなり、それをそのまま受け入れて見ても結論には大差ない。

 ある国の生活条件を、物質的な消費だけで説明することはできない。例えば、ブータンのような国は所得水準はそれほど高くないものの、幸福指数は非常に高いという。しかし、貧しくて食事さえままならない状況で幸福を云々することはできないではないか?そうした点で、日帝強制占領期間に朝鮮人の生活の質が良くなったとか、生活水準が向上したなどという主張には説得力がない。

 広く知られているように、解放後の韓国は所得水準が非常に低い国の一つであった。解放後、長期にわたり春窮(春の端境期)という言葉がなくならなかった程にいつも飢えに苦しめられた国だった。遠い昔の話のようだが、筆者自身が経験したことだった。日帝強制占領期間にそれほど多くの開発が行われたならば、解放後の韓国がそれほど貧しくなかっただろう。こうした経験は、上のグラフとも整合する。これがファクトではないのか。植民地近代化論の“不都合な真実”は“不都合な虚構”に過ぎない。

ホ・スヨル忠南大学経済学科名誉教授


by daisukepro | 2019-09-02 14:59 | 歴史

韓国は「敵」なのか 日韓関係の改善求め緊急集会

韓国は「敵」なのか

日韓関係の改善求め緊急集会

写真

(写真)緊急集会「韓国は『敵』なのか」=31日、東京都千代田区

 日韓の深刻な関係悪化に対し、対韓輸出規制の撤回と対話での解決を求める緊急集会「韓国は『敵』なのか」が31日、東京都千代田区の韓国YMCAで開催されました。弁護士や研究者らが意見表明しました。主催は「韓国は『敵』なのか」声明の会。会場は満員となりました。

 和田春樹東京大学名誉教授は、侵略戦争と植民地支配の歴史を正当化する安倍晋三首相の政治活動の原点が「河野談話」などに反対した「若手議連の会」の結成(1997年)にあると述べ、「この道を進めば日本が平和国家でなくなる危険もある」と警告。板垣雄三東京大学名誉教授は日韓問題を見る際に日本が戦後「侵略戦争も植民地支配も反省ができていない」ことを忘れてはいけないと訴えました。

 内田雅敏弁護士は、日韓請求権協定(1965年締結)で個人の請求権が放棄されていないとの昨年10月の韓国大法院判決は、日本政府の見解と同じだと指摘し、同協定が「植民地支配の不法性に触れなかったことを広げるべきだ」と強調。東洋経済新報社の福田恵介氏は、昨年の韓国からの訪日客が753万人に上り、「日韓は気心が知れたパートナーだ」と述べ、恣意(しい)的な外交政策は慎むべきだと日韓両政府を批判しました。

 山口二郎法政大学教授は徴用工問題や「慰安婦」問題で「問われているのは人間の尊厳をどこまで守るのかという姿勢だ」と述べ、「安易にナショナリズムを利用する安倍政権に対して声を上げることこそ、歴史がその正しさを証明する」と強調し、訴えを広げる決意を表明しました。



by daisukepro | 2019-09-02 08:54 | 歴史

大統領府「安保と輸出規制を連係させ  韓米日の関係を阻害したのは日本」 

日本「ホワイト国から韓国除外」施行 
大統領府「安保と輸出規制を連係させ 
韓米日の関係を阻害したのは日本」 
「ボールは日本に移っている」態度変化を要求 
韓国外交部は日本大使を呼び抗議
キム・ヒョンジョン大統領府国家安保室2次長が28日午後、大統領府のブリーフィングルームで日本の2次経済報復措置である「ホワイト国排除」に対する韓国政府の立場を明らかにしている//ハンギョレ新聞社

 大統領府と政府は28日、韓国を狙ったホワイト国(グループA:輸出管理上の優待国)からの除外措置をこの日から施行した日本政府に強い遺憾を表明した。

 キム・ヒョンジョン大統領府国家安保室2次長はこの日、大統領府で記者会見を行い「これまで韓国政府は、日本が韓国最高裁(大法院)の強制徴用判決と関連して取った経済報復措置を撤回するよう持続的に要求してきたが、今日から韓国をホワイト国から除外する措置を施行した。韓国政府はこの措置に強い遺憾を表わす」と話した。韓国政府が韓日軍事情報包括保護協定(GSOMIA)を終了することにより、輸出規制措置を安保問題と連係させたという日本政府の主張にも反論した。キム次長は「日本政府は当初強制徴用問題のせいで両国の信頼関係が毀損されたと言ったが、後になって韓国の輸出許可制度上の問題点が日本の安保に否定的な影響を及ぼしていると主張した。安保問題と輸出規制措置を連係させた張本人は、まさに日本だという点を改めて指摘する」と批判した。

 また、1965年の韓日請求権協定に言及して「韓国が歴史を書き換えようとしても不可能だ」と主張した日本の河野太郎外相を直接批判もした。彼は「歴史を書き換えようとしているのは、まさに日本」と鋭く言い放った。韓国最高裁の強制徴用判決を是正せよという日本政府の要求には「民主主義国家では司法府に対する政府の干渉はありえない」と反論した。

 キム次長は「ボールは日本側に移っている」とし、日本政府の態度の変化を要求した。彼は「私たちに対する恣意的で敵対的な経済報復措置で、韓米日の関係を阻害したのはまさに日本」とし、「光復節の祝辞で文在寅(ムン・ジェイン)大統領が言及したように、日本が私たちが差し出した手を握ることを期待する」と話した。

 政府レベルの遺憾表明と抗議措置も続いた。李洛淵(イ・ナギョン)首相はこの日、世宗(セジョン)市の政府世宗庁舎で、日本の輸出規制対応に関連した拡大関係長官会議を開き「日本が不当な措置を継続していることをきわめて遺憾と考える。日本が事態をこれ以上悪化させず、韓日関係復元のための対話に誠意をもって臨むことを繰り返し求める」と話した。外交部は長嶺安政・駐韓日本大使を呼び抗議して措置の撤回を要求した。

 一方、日本政府はこの日午前0時を期して、韓国をホワイト国であるグループAからグループBに引き下げる内容の輸出貿易管理令改正案を施行した。日本の輸出企業はこれまで韓国に戦略物資を輸出する時「一般包括許可」(3年単位1回許可)を受ければ良かったが、この日からは軍事転用の恐れがある場合には原則的に輸出の度にいちいち許可を受けなければならない。日本政府が「特別一般包括許可」という制度を通じて包括許可(有効期間3年)を渡すことは可能だが、制度運用の過程でいくらでも規制することができるため、韓国としては不確実性が高まる。さらに食品と木材を除くすべての品目に対しても「キャッチオール規制」が適用され、戦略物資でなくとも軍事転用の恐れがある場合には個別許可を受けなければならない。

ソン・ヨンチョル、ノ・ジウォン記者、東京/チョ・ギウォン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )


by daisukepro | 2019-08-29 13:36 | 歴史

日中戦争写真展、後援せず 文京区教委「いろいろ見解ある」

<くらしデモクラシー>日中戦争写真展、後援せず 文京区教委「いろいろ見解ある」 2019年8月2日 朝刊
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揚子江岸に散乱する死体を写した村瀬守保さんの写真を説明する矢崎光晴さん=台東区で写真 日中戦争で中国大陸を転戦した兵士が撮影した写真を展示する「平和を願う文京・戦争展」の後援申請を、東京都文京区教育委員会が「いろいろ見解があり、中立を保つため」として、承認しなかったことが分かった。日中友好協会文京支部主催で、展示には慰安婦や南京大虐殺の写真もある。同協会は「政治的意図はない」とし、戦争加害に向き合うことに消極的な行政の姿勢を憂慮している。 (中村真暁) 同展は、文京区の施設「文京シビックセンター」(春日一)で八~十日に開かれる。文京区出身の故・村瀬守保(もりやす)さん(一九〇九~八八年)が中国大陸で撮影した写真五十枚を展示。南京攻略戦直後の死体の山やトラックで運ばれる移動中の慰安婦たちも写っている。村瀬守保さん=日中友好協会提供写真 同支部は五月三十一日に後援を区教委に申請。実施要項には「戦場の狂気が人間を野獣に変えてしまう」との村瀬さんの言葉を紹介。「日本兵たちの『人間的な日常』と南京虐殺、『慰安所』、日常的な加害行為などを克明に記録した写真」としている。 区教委教育総務課によると、六月十四日、七月十一日の区教委の定例会で後援を審議。委員からは「公平中立な立場の教育委員会が承認するのはいかがか」「反対の立場の申請があれば、後援しないといけなくなる」などの声があり、教育長を除く委員四人が承認しないとの意見を表明した。 日中友好協会文京支部には七月十二日に区教委が口頭で伝えた。支部長で元都議の小竹紘子さん(77)は「慰安婦の問題などに関わりたくないのだろうが、歴史的事実が忘れられないか心配だ。納得できない」と話している。 日中友好協会(東京都台東区)などによると、村瀬さんは兵たん自動車第十七中隊に配属され、一九三七年から二年間半、中国大陸を転戦。持参したカメラで部隊の様子を撮影していた。写真を渡された隊員たちは内地の家族に送っていたため、撮影は半ば公認されるようになった。死去後、家族が協会に約八百枚の写真を寄贈。パネル化され、四年ほど前から全国の戦争展などに貸し出され、延べ約八十回展示された。 村瀬さんの写真が中心の企画もあり、二〇一五年開催の埼玉県川越市での写真展は、村瀬さんが生前暮らした川越市が後援。協会によると、不承認は文京区の他に確認できていないという。 一方、〇五年には、埼玉県平和資料館が、常設展示していた昭和史年表にある村瀬さんの写真や、「南京大虐殺」などとした表記を白い紙で覆い隠し、議論になった。同資料館での写真展示は〇七年、「南京占領から二週間ほど後の揚子江岸付近」とキャプションを付けて再開されたが、説明書きは「南京事件・南京大虐殺」などと修正された。一三年の同館リニューアル後は写真の展示自体がなくなった。 協会事務局長の矢崎光晴さん(60)は、今回の後援不承認について「承認されないおそれから、主催者側が後援申請を自粛する傾向もあり、文京区だけの問題ではない」と話す。「このままでは歴史の事実に背を向けてしまう。侵略戦争の事実を受け止めなければ、戦争の歯止めにならないと思うが、戦争加害を取り上げることに、行政は年々後ろ向きになっている」と懸念を示した。<南京大虐殺(南京事件)> 旧日本軍が1937(昭和12)年12月ごろ、中国国民政府の首都南京を陥落させ、中国軍の敗残兵や捕虜、一般市民を南京城内外で殺傷し、暴行したとされる事件。日本政府は「非戦闘員の殺害や略奪行為などがあったことは否定できない」とする一方、人数には言及していない。事件の規模や虐殺の定義、戦時国際法違反だったかを巡り論争が続いている。村瀬さんが撮影した、トラックで運ばれる慰安婦=日中友好協会提供写真
by daisukepro | 2019-08-02 08:58 | 歴史

元徴用工問題に抜け落ちた 歴史認識              梅田 正己

元徴用工問題に抜け落ちた歴史認識             梅田 正己韓国人の元徴用工への損害賠償問題がこじれて、ついに韓国への輸出に規制がかけられ、韓国経済の大黒柱である半導体の生産が土台から揺らぐ事態となった。問題の発端は元徴用工の日本企業に対する賠償請求の訴えと、それを認めた昨秋の韓国最高裁の確定判決である。元徴用工の要求の背景には、第二次大戦の末期、日本人の青壮年が根こそぎ軍に召集されたことで欠乏した労働力を補充するため、朝鮮から約70万人の労働者を徴用した歴史的事実がある。人々は賃金を強制貯金させられ、半数以上がそのままとなった。元徴用工の要求には正当な根拠がある。しかし日本政府は、1965年の日韓基本条約で請求権問題は個人を含め「完全かつ最終的に解決された」としている。だが当時の韓国は軍事独裁国家だった。そのあと甚大な犠牲を払った民主化運動により、韓国は民主主義国家に生まれ変わった。軍事政権下で結ばれた条約の文言を金科玉条としてはねつけるだけでいいのだろうか。ドイツもナチス時代に他国民に強制労働をしいたが、2000年、その補償のための基金「記憶・責任・未来」を創設、半分を政府が持ち、残りを企業が負担した。その中にはフォルクスワーゲンやジーメンスも含まれている。
by daisukepro | 2019-07-07 10:15 | 歴史